機能的文脈主義に関する、ごく専門的な追記

(ツッコミを頂いたので、少し専門的な見地から補足をします。)

 

前エントリに関し、id:picnic611 さんから以下のコメントをいただきました。ありがとうございます。

「愛は幻想です。実在しません。実在するなら、いま、ここで見せてください。ほら、見せられないでしょ?愛は存在しない。証明終わり!」論法 

「見せられないから、存在しない」という論法は、おっしゃる通りで、科学的には真ではありません

 

そこで、前エントリの背景となる機能的文脈主義という考え方(科学哲学)について補足しておきたいと思います。

 

機能的文脈主義は二人の親を持ちます。哲学的実利主義と文脈主義です。

哲学的実利主義では、経験不可能な事柄の真理を考えるのではなく、概念・認識を客観的に記述します。

文脈主義では、行為それ自体が望ましい/役にたつかどうかは、その行為が行われる文脈に依存する、と考えます。

 

少しわかりにくいので、もう少し平易に下で述べていきます。 

 

まず、多くの哲学は真理基準、つまりなにを真とするかの基準というものを持ちますが、機能的文脈主義の真理基準は「役に立つかどうか」です。(専門的には、機能するかどうか、です)

 

機能的文脈主義は、行動科学・行動分析の中から立ち現れてきた哲学ですから、では、何に役に立てばよいかというと、行動の予測と制御の役に立てばよい、ということになります。

 

機能的文脈主義はオントロジー(存在論)ではありません。

そのため、何かが存在するかどうかは、どちらでもよい、という立場をとります。
また、何かが、「ほんとうかどうか」も、どちらでもよい、という立場をとります。

ラフに言うなら「正しさは、どうでもいい」です。

 

例えば、クライアントが

「先生、私は悪い母親なんです。昨日は息子にこんなことをしてしまいました。
ですから、私が悪い母親なのは、ほんとうのことなんです。ひどい母親です。」 

 といったとき、機能的文脈主義を採用するセラピストは、クライアントがほんとうにひどいかどうか(あるいは、ひどさがクライアントに存在するかどうか)については、(それを議論することが、クライアントが前に進む上で役に立つという判断をしない限り)議論しません。

クライアントが酷い母親であるかどうかを見極めることは、クライアントが悩みから脱出する上では、基本的には役に立たないからです。

 

他にも、例えば部下が

私は才能のない人間なんです。これは真実なんです。だからその仕事は私にはできません。 

と言うかもしれない。

けれども、部下に才能があるかどうか、その真実についてはどちらでもよく、そう考えることが、役に立つかどうか?を考えるのが、機能的文脈主義の立場です。

 

ここまでが「機能的文脈主義」の機能という言葉の簡便な説明です。

 

続いて、文脈というのはどういうことかというと、

「役に立つか、立たないかは文脈による」という考え方です。

 

一般的には「壊れた椅子」は役に立ちませんが、文脈によっては役に立ちます。
例えば、椅子のメーカーが、椅子の強度を向上させよう、という時
壊れた椅子はとても役に立つかもしれません。

 

そして、機能的文脈主義では、任意に選択されたゴールに対して役に立つ(workable)かどうかを模索します。

これらが、駆け足ながら、機能的文脈主義の前提です。

 

機能的文脈主義では、その方が行動の予測と制御に役に立つため
「考える」とか「感じる」とか「分析する」といった、「私的出来事」も行動として分類します。話すとか、走るといった、公的行動と同じように「行動」として捉えたほうが、行動科学では機能するためです。

 

従って、内的行動は、基本的には1人のひと(つまり、行動の取り手)にしか観察されませんが、機能的文脈主義が、その内的行動を「存在しない」と考えているわけではありません。

 

 

従って、

「やる気が存在するか、しないか」というのは、(機能的文脈主義を採用しているときの)私にとってはどちらでもいいのです。

しかし「やる気」を議論することが、行動を変える役に立たないことを私は知っています。

 

なぜかというと、これは、やる気自体が存在するから、存在しないから、という議論よりも、「やる気」には、①場面間転移性、②制御可能性がなく、行動に予測と影響を与えづらいためです。

 

場面間転移性とは、
例えば、得意科目の「国語」の「やる気」を吸い上げて、
苦手科目の「算数」をやるときに、その「やる気」を与える、
というようなことを言います。

 

制御可能性とは、
例えば、吸い上げた「やる気」を、「理科」を勉強する時に半分または2倍にして
与えると、その勉強への取り組み方は、半分ぐらいまたは2倍になるだろう。
というようなことを言います。つまり、与え方の工夫です。

 

「お金」や「どうぶつのシール」は、
この場面間転移性と制御可能性を持ちますが、
やる気、モチベーション、熱意は持ちません。
(もつ方法論があるなら、是非知りたいです)

 

 

従って、もし、もう少し正確に記載するならば前エントリは

「やる気について考えることは、機能的ではありません」
「やる気を構成している要素である、具体的な行動について考えましょう。」

のようになります。

 

けれども、この種の説明は、あまり機能しない(行動に影響を与える上で機能しない、つまり、途中で読み手が離脱する)ことが多いことを知っています。(どのくらいの方に、ここまで読み進めていただけたでしょうか?はてなスターを下に1つ頂く、ということにすれば、アクセス数比で、私の想定が正しかったかどうかの検証ができるかもしれません。)

 

つまり「やる気は存在しない」と書いたほうが、読者が今後、やる気にフォーカスするのではなく、別の行動にフォーカスする上で機能するだろうと考えて、前エントリの書き方にしている、というのが実際のところです。

 

id:picnic611 さん改めましてコメントを頂き、より正確に記述するチャンスをいただき、ありがとうございました。