14回目に思うこと

「しあわせ はこべるように」
http://www.kobe-c.ed.jp/research/on-es/kobenouta/shiawase.mp3

1.
地震にも負けない
強い心を持って
亡くなった方々の分も
毎日を大切に生きていこう

傷ついた神戸を
もとの姿に戻そう
支え合う心と明日への
希望を胸に

響き渡れ僕たちの歌
生まれ変わる神戸の町に
届けたい私たちの歌
しあわせはこべるように

2.
地震にも負けない
強い絆をつくり
亡くなった方々の分も
毎日を大切に生きていこう

傷ついた神戸を
もとの姿に戻そう
優しい春の光のような
未来を夢み

響き渡れ僕たちの歌
生まれ変わる神戸の町に
届けたい私たちの歌
しあわせはこべるように

しあわせはこべるように

+ + +

当時、小学3年生だった。
神戸の人工島に住んでいた僕は、
それでも非日常に「楽しく」生きた気がする。


1/17朝。
寝ていたすぐ隣に、本棚が倒れ、その本棚の背面板の上には大きなテレビが飛来し、その板を破った。
家中の食器が、高いものから順次破壊され、床の上に四散し、スリッパを探しだす事が最初の仕事になったこと。

家の片づけを続け、一息して、その時食べたカレーライスに入っていたガラスの欠片のこと。

非日常の災害の中で、
何段もの階段を上り下りしながら、水汲みに行ったり、配給を貰いに行ったり、
少しでも家族や地域の「戦力」となれたのは、子供にとっては嬉しい承認の機会だったようにも思う。

悲しいことも、辛いことも、大変なこともたくさんあったけれど、
それでも、それでも、楽しんで生きたように思う。

変わり果てた街並みが、順次きれいに戻っていく様子
威勢良く来去した、どこかの地方から水を運んできてくれた民間団体、
小学校での配給。
自衛隊の方々が、水道のラインを、近くの道路近辺まで引き、そこで水が汲めるようにしてくれたこと、
また、小学校の運動場の端で、「どんたく温泉」を作ってくれたこと。

ポートアイランドの南の方で、急ピッチで進んだプレハブ住居。
普段は別々に住んでいた、祖父と祖母がしばらく同居してくれたこと。

友達のお母さんが、実家へしばらく行くから、と冷蔵庫の中の食糧を全部くれたこと。
マンションの上の方の階だと大変だろうから、と、家を数週間貸してくれた人まで居た。

友人に、死人は出なかった。
同じ小学校の中では、1人か2人、亡くなった子が、居た。
小学校では、粛々と黙祷が捧げられた。

その件を除けば、
一度の災害から、
大変さの中に、悲劇の中に、
むしろ回復へと向かう、
人と人との関わりや、力強さを見たように、
今振り返って思う。

もっとも、
それだって、
ただの強がりだったのかもしれないが。



これからも、災害に強い安全な建物が増えますように。
大災害の時にも力を貸し合える僕らでありますように。