なぜ大人は大人の敵になりたがるか
「サーマー校長は、君になんとおっしゃったのかね?」
「ええと、人生はゲームだとか」
「人生はゲームなんだよ、君」
ゲームだって、そんなもの、クソ食らえ。
それから、先生は言った。
「数週間ほど前に、君のご両親が校長先生のところに来られたとき
お目にかかったが、立派な人物だなあ」
「はい。そうです。とってもいい人です。」
立派。なんて嫌な言葉なんだ。それを耳にするたび胸がむかむかしてくる。
――J.D.サリンジャー「The catcher in the rye.」
「あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。所が学校と云ふものは中々情実のあるもので、さう書生流に淡白には行かないですからね。」
「今日ただ今に至るまで是でいいと堅く信じている。考へてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励して居る様に思ふ。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直に純粋な人を見ると、坊ちやんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。夫(それ)じゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教へない方がいい。いつそ思い切つて学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだらう」
――夏目漱石「坊っちやん」
もしかすると、我々が、「子供」に接するとき、我々もまだ子供であるかもしれないが、「子供」から見れば「大人」とみえよう我々は、もしかすると、もはや大人たちと敵対する事でしか、子供たちの味方には成り得ないのではないか。
『いやまってくれちがう、俺はそんな大人ではない――。俺は、まだ、“坊ちやん”なるぞ』、と。
今年の六月、教育実習に行く。母校にである。科目はまだ決まっていない。届けには物理か英語と書いた。私は何を教え、なにを学ぶであろうか。何も無理に生徒の味方を装う必要はないだろうし、僕が思うがままにしていればよいのかもしれない。が、生徒の側に立つと言うことは、生徒の間しかできないのかもしれない。
教師は生徒より多くの物事が見えすぎ、また、生徒がよく見えているものがぼやけて見えない。そして、生徒は、教師を、あまりよく見ようとはしない。ただ、『口を開けて餌を待つのみ』であるとか。