- 自立と自律と、それから透明なわたし。

 大学生になって、一人暮らしをしていると本当に「怖いもの」が無い。怒ってくれる人も居なければ早く帰って来いという人も居らず、まったくに「自由」だ。

 いま、怖いものはなんですか、と聞かれたら、「怖いものが無いこと」と答える事に、僕の中でそう違和感は無い。いやまあ、単位とか、そういったものは置いておいて。

 大学生になって、明らかに高校までと違うことがいくつかある。中学や高校では、多少成績が悪くても、学年の先生らで集まって「進学会議」のようなものがあって『成績は悪いが上昇傾向にはある』などといった理由で留年を回避できたり(僕はこれで「かなり」助かりました)したのだが、大学であれば機械的に単位が足りなければ留年なり降年なり卒業不可なり。淡々と処理をする教務課の職員達は、我々の事を知らない。そして講師達も。―わが東大にもクラス担任なる存在が居るらしいが、私は顔を知らない。

 大学といっても研究室に入れば変わるのやもしれないが、大学というのは、一種の「匿名社会」だ。大学の講師は誰一人として「生徒全体」を知る由も無いし、まったく存在も名前も講師に知られる(記憶される)事無く単位を得る事なんて日常茶飯事といっていい。中学高校であれば、曲がりなりにも先生は、生徒を知っていた。担当学年全員の名前を知らない教師はおかしい、と言えた。だが大学ではどうか。教師からして生徒は匿名である。

 インターネットの台頭で「匿名」である事の利害がクローズアップされだしたのは数年前の事だが、匿名社会の本質とは「特定されない」から「怒られない(罰されない)」事であることを鑑みれば、ネットが無くたって、大学生はある種の「匿名社会」の中に居続けていたわけだ。そして、どうせ町の中では、中学生だろうが高校生だろうが「顔が割れている」だけで、知らぬ他者に対しては本質的に「匿名」なる(その匿名化を防ぐのに制服というものは結構役にたっているのではないか、と思うこともあり)。

 匿名の「害」というものは、インターネットにその存在を脅かされているマスメディアが、小うるさいほどに喧伝してきた為、ここでは一々論じる要を感じはしないが、匿名の利点もあったり、実名の害もあったりするので「匿名」即悪と言う事は無いがしかし、「害」がある事は事実であろうと思われる。さてそういった状況下で、ネット無くしても匿名たりうる都市、すなわち「地域社会」との繋がりを失った現代の都市で、匿名化の「害」を防ぐには、自分で自分を律する以上無い。誰も自分自身からだけは匿名ではいられないからだ。

 しかし、単純に自律と言った所で、それは半ばお題目化した意味を成さない表現というか、受験勉強でなんかで「基礎をやりなさい」といわれて「じゃあ基礎って何よ」と思案に暮れる時の「基礎をやれ」と酷似した「自律しろ」であって、「自分自身を律せよ」とはいうものの、そう言ったところでそれは別に何も言っていないのに等しい、という感じはする。

 それでは、匿名の毒に対抗しうる自律とは何だろうか?ゆっくりと考えてみたい。