よい仕事をするために
- しなやかに伸びていくひとと、頑なに崩れ堕ちていくひとがいる。
学生時代、面白いひとに囲まれて過ごした。もちろんそれは、今もそうなのだけれど、今回はちょっと、昔話からはじめよう。
「アクティブな東大生」で「学生起業家」だったし、いまの会社の社長に誘われて会社を興すまでは、就職しても楽しそうだと思っていたので、内外トップティアのコンサルティングファームから、コンテンツプロバイダーに、投資会社に、ノーベル平和賞を獲った銀行や、デザインファームまで。それはそれは(節操なく)いろんな会社でインターンをしたり、していた。ミーハーですね。笑。
だから、それはもう「優秀」と言われるひとたちが、周りにはたくさんいた。面白い仲間にも、素敵な先達にも会えて、それは僕の人生のひとつのリソースになっている。
そう。パフォーマンスを発揮していた多くの、同年代のひとたち。が、居た。
その時の出逢いから2~3年を経て、みなそれぞれの道を歩んでいる。ソーシャルメディアが彼らの進捗を見せてくれるようになって、ぼんやりと「しなやかに伸びていくひとと、頑なに崩れ堕ちていくひとがいる。」そんなことを最近、思うようになった。
崩れ堕ちてゆくひとについて、いったいどうしたんだろう、と思って、考えている。
- 有能さの影の腐臭
たとえば、意義ある社会問題に取り組んでいたはずが、いつのまにか世界一周なんてを始めてしまって、誰にも貢献することなく、Twitterでアツい言葉をいっぱいつぶやいて「旅する名言集」みたいになってしまったひとがいる。言葉だけが上滑りしていて、なんだかとってもみじめです。
たとえば、なんとなく有名人をアサインして、なんとなくオーセンティックな会場を借りて、だけど告知文からは、どう見ても中身がなさそうな、どうみても楽しくなさそうな、イベント屋さんみたいになってしまったひとがいる(いい企画のイベントなら、喜んでいきましょう)。
たとえば、起業しているというので会ってみると、Twitterでは勇ましいことをたくさん書いているのだけれど、「本当にやりたいことは別にある」とか、自社の愚痴や業界の状況の悪さ。要は「自分が悪くない理由」ばっかり言っている人が居る。たまに、本人の貢献度の分からない、成果の自慢を聴く。
おまえたち、いったい、どうしちゃったの・・・?
昔は、確かに、輝いていたはずの「そういうひとたち」には、見せかけの有能さの影に、腐臭がある。
「本人より ”弱い” ひとたちには、実力以上に評価されている」「その人より”レベルの高い”ひとには、相手にされていない。」そんな感触もある。
- 素晴らしかった自分にさようなら
どうして、そうなってしまったんだろう。豊かな才能を持っていたはずの、素敵な人たちが崩れていくのを見るのは、とても悲しい。
そんなひとが少なくなって、持てる豊かな才能を、自分らしくきちんと輝かすことができる。そんな状況を創りたいから、今日はこの記事を書く。
たぶん、原因は「素晴らしかった自分にさようなら」できないから、だと思うのだ。
学生が終わって、いよいよ仕事が始まって。起業しようが、企業に入ろうが、研究をはじめようが、新しい仕事、よりよい仕事、価値ある目標に向かおうとすれば、できないことがいっぱい出てくる。
悔しいけれど、だってその仕事に値する実力はまだどう考えたってないのだから、泥臭く目の前の現実に取り組むしか、ない。少しの成功も少しの失敗も、混沌を混沌のまま、複雑さを複雑さのまま、受け入れるしかないのだし。ちからのある人に力を借りるしかないのだし。仲間に助けてもらうしかないのだし。量が質に転化するのを、待つしかないのだし。
だけど、素晴らしい成果を出していたから、成功していたという足かせがあればあるほど、どんどんと苦しくなる。助けて、って言えない。手伝って、って言えない。ごめんなさい、って言えない。言えないまま、だけど時間は過ぎていくのだから、どんどん苦しくなる。
もう、誤魔化すしかなくなる。失敗を覆い隠そうとしたり、あろうことか成功したかのようにごまかそうとしたり。本気じゃないことにしたり、周りのせいにしたりする。
もしも、自分のキャパシティを超えていい仕事がしたいなら。今より多くの価値を社会に届けたいなら。「素晴らしかった自分にさようなら」しないといけない。学生の頃ちょっと凄かったからって、たかが知れている。たかが、知れている。
そのままで終わりたくないのなら、背伸びするしかないのだし。背伸びして伸びた背丈を、後から測ると成長というのだし。そしてなにより、過去は過去。
- 貢献のフォーカスは、いつだって仕事の品質。
なぜ「素晴らしかった自分にさようなら」できないのだろう。それは、焦点がどこまでも「自分」だから、なのだと思う。仕事をするとき、フォーカスはだいたい、ふたつある。自分か、仕事か。
フォーカスすべきもの。それはいつだって、仕事の品質。社会に届けた価値。目の前のあなたのお役に立てたということ。それしかない。
自分にフォーカスすると、自分が主導権を持たないプロジェクトへ、コミットがなくなる。何故なら、そのプロジェクトが上手くいっても、自分には関係ないと思ってしまうから。
自分にフォーカスすると、大きな仕事ができなくなる。何故なら、自分より優れた人を巻き込むことはできなくなるから。
自分にフォーカスすると、良い仕事ができなくなる。何故なら、よりよい成果を挙げるためでも、批判を受け入れられないから。貢献の対象を蔑ろにするから。
自分にフォーカスしている人が大好きな「自分に主導権のあるプロジェクト」。でも、彼とは、誰も仕事をしたくない。何故かというと、彼が成果を出すために"使われている感"というのがあるから。
自分にフォーカスしているひとは、成功しているときはいいが、状況が悪くなると人のせいにして、やめてしまう。新しいことをはじめようとする。そうして、何もモノにしないまま、渡り鳥を続けるのだ。
- 現実をまっとうに視るということ。
こんなことを書いている僕も、こういう時期は、あった。
状況が悪くなると、ひとは自分を守りたくなる。そのあたりの落ち込みと、そこからの脱出、人生を通して繰り返してきたパターンからの脱出については、別のところで書いたから、詳しくはここでは書かないけれど、メンバーに嫌な思いはさせたし、成果は出ないし、まあ、さんざんだった。視野が日を追うごとに狭まって、現実が見えなくなっていく。
だけど、そこから人は出れるのだと思うし、自分にフォーカスするよりも楽しく良い仕事ができるし、ストレスも驚くほどすくない。
マッキンゼーに行く後輩が居る。一年も前に、進路の相談にのっていたときのこと。色んな夢をきらきらと語ってくれたあと。そして、色んな会社からオファーを貰ったことを自慢気に話したあと。彼は振り絞るように、こう言った。「リョウスケ、おれ、やっぱりベンチャー行くの怖いから、マッキンゼーいくよ。」その弱さを認めた彼は、きっとマッキンゼーに入って、ぐんと伸びるんだろう。そのうち一緒に、仕事がしたいなあ、と思っている。
- ところを得る
自分が輝ける場所と、輝きたい場所は、たぶん、ちがう。強みによってしか価値を産み出せないのだから、輝きたいならば、強みに集中するよりない。武器を磨いていくよりない。
強みとは、自然にやってること。毎日、毎月、人生の至る所で自然と繰り返してきた思考と行動の癖。繰り返し行なってきたから、磨きこまれていて、誰か他の人が追いつけない高みに到達したもの。
そこに集中するしかないのだけれど、隣の花は赤くて、芝生は青くて。自分が自然にできることに、ひとは価値を感じない。
「自分」にフォーカスすると、輝けない場所で苦しむことになる。「仕事」にフォーカスすると、成果が出る場所、輝ける場所に注力できるようになる。
そして、強いところも、弱いところも、まっとうに現実がみえれば、やりようはある。自分に矢印が向くと、現実がみえなくなるから。だから怖い。
フォーカスを「いい仕事」に切り替えると。つまりそれは、貢献に。つまりそれは、価値を産み出すということに切り替えると。少しだけ視野が、戻ってきます。そして自分が、見えるようになります。
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