あざやかに生きる

ルドベキアの花言葉は、Justice.
"正義"だとか"公正"だとか。そう訳されがちなJusticeは、
とあるドラマの中で「あざやかな態度」と置かれているという。

Justiceがあざやかな態度、とした時に、
僕らはいかに、あざやかに生きることができようか。

 

  • Commitment / 約束を果たすこと

学生時代出会った、素敵な大人が居る。20年ものあいだ、企業のコンサルティングをし続けている彼と、時たま会って教えを請う。先日も、熱々の焼き鳥をご馳走になりながら、こんな話をした。

とあるプロジェクト。先方の社長と合意して、プロジェクトの実施が決まり、担当役員と細部を詰めることになった。担当役員は「値引きせよ」と繰り返すのみ。プロジェクトの目的、理想像、意義、必要な施策、ひと通り言葉を尽くして、社長の真意を問うてなお「値引きせよ」と。

彼は、担当の役員を飛び越え、直接社長とコミュニケーションをとった。異例のことだし、後で担当役員からはもちろん、方々から非難されたという。

けれど、と彼は言う。別にそれで、受注が獲れなくてもいい。非難されるのは覚悟しているから、それでいい。担当役員の「値引きを飲ませた」という評価のために仕事をしていない。だから、社長の真意を知る必要がある。クライアント企業の未来をつくるために、やっている。クライアントの未来のための仕事にならないなら、そもそもやらなくていい。

この生きかたは、あざやかだ、と僕には想える。約束するものがあれば、目先の評価も、自分の相手への見え方も、気にならなくなる。それで何かがブレるようでは、約束を違えることになってしまうから。

コミットメントのある人生は、うまくコミットメントをやり過ごす人生にくらべると、大変な人生になるだろう。だけど、コミットするものの無い人生を、僕は生きなくていい。

そして、コミットメントは実のところ、相手への約束というよりも、何のために自分は生きるか、という自分自身への約束に他ならない。

 

  • 気がつけばそこに、コミットメント

あるNPOの代表理事と食事をした際、リーダーシップについて色々と質問をうけた。イキゴトという会社を僕は、社長の五味勇人や仲間たちとはじめた。そして僕は、彼をリーダーだと思っている。その五味勇人にあるリーダーシップとはなにか。そんな質問を、彼女自身よりよいリーダーになりたいと思って、聞いてくれたのだった。

 「イキゴトの社長が、リーダーとして相応しい何かがあるとする。では、そのスキルやマインドを超える誰かが居たとして、僕は他人に乗り換えるんだろうか。」 こういった問いに思い至った時、しっくりと腑に落ちた。コミットメントに、そのとき気づいた。自覚的になった。

 「彼に何かがあるから」ではなく、僕が彼にコミットしていたがゆえに、彼は僕のリーダーなのだと。だから、僕は彼との関係において、「彼がリーダーであることへのイニシアティブ」をとっていることになる。ゆえに、僕はそのことに対して責任がある。

 コミットメントは、気づかないうちに育っている。よいタイミングで、よい問いに出逢うと、自分の中からすとんと、釣り上げることができる。

 

  • 無自覚なまま、コミットメント

人生で、実はコミットしていたものに無自覚なままでいることは不幸だ。

かつてジェームズ・C・アベグレンは「日本の経営」の中で日本人の会社組織への属し方を“Lifetime Commitment”と洞察した。「終身雇用」と誤訳されたそれは、古い悪弊のように呼ばれたが、それはまさしくライフタイム・コミットメント。生涯を通じたコミットメントー忠誠ーだったのだろう。

 Commitmentとは、約束。そして誓い。コミットするからには、それを果たす責任が生じる。「ともに、未来をつくる」という約束を忘れ、コミットメントに無自覚になったLifetime Commitmentは、たしかに、確かに、既得権益を含意する「終身雇用」に堕しただろう。それは、企業と人との関係のみならず。自分自身へも同じことで。知らず知らずのうちに、いったい何を自分に約束して生きていたのか。

 

  • ひらめきを確信に変える

「責任」と訳語を当てられているResposibilityとは、本来はレスポンス。応答可能性のことだという。「責任をとって辞める」というこの国にありがちな光景とは意を異に、対話をやめない姿勢こそ、Respons-ibilityがあるのだと。

きっと、Responseを続けることで、Commitmentは育つのだと思う。

 この4月に、東京大学の福武ホールで「社会とナンセンスの交差点」と題したカフェイベントを、企画者のひとりとして実施した。「明和電機」というアートユニットの 「代表取締役社長」土佐信道氏がゲストだった。オタマトーンという「おたまじゃくし型おもちゃ」の開発に彼は「おたまじゃくし型」とひらめいてから1年かけて、アイディアをかたちに、かたちを世の中におくり出し、結果14万台以上が売れたという。

 ふつうのひとは、ただの「ひらめき」に1年間も取り組めない。「なぜ取り組めたのですか」と訊いたときに、彼は言った。最初のアイディアは、不安だらけ、不確定だらけ。だから。「ひらめきを、確信に変える仕事」をするのだという。スケッチを何百と描いて、何百と捨てて。様々な情報を調べて、そしてひとに話を聞きに行く。 

自己と他者、自分と書物、わたしとメモ。そういったResponseの応酬が、コミットメントを育んでいくんだろう。

 

  • 合縁奇縁、プロメテウスのくれた火

友人がある日、こんなことばをくれた。
「恋人もそうですが、現状のパートナーのステイタスを超える人が現れた場合に、じゃあ他人に乗り換えるだろうか?と考えた時にもコミットメントと言えるかもしれないですよね。でも、結局そのコミットメントの発生理由は偶然そばにいたとかの理由が多い。僕はだから常々、偶然を祝福しないと人生は生きてらんないと思っています。」 

彼が洞察したように、コミットメントの火種は偶然。「ひらめき」に近いなにか。その火種を育て、確信へと煽るResponsibilityは風。火種は、自己との、他者との、外の世界との対話によって育まれ、いつしか自覚できる大きさにまで、燃える。

なにかにきちんとResponseするためには、きっとこころが開かれていないといけない。賛同も批判も受け止めて、そして現実と向きあう懐のふかさ。コミットメントはだから、固執することとは真逆のことなのだ、と思う。
 
  • いのちを燃やして生きる
東北に、津波の被害を受けた地域で、防潮林再生のプロジェクトに関わっている友人がいる。「亘理 グリーンベルト プロジェクト」という、宮城県亘理町の沿岸部一帯で、防潮林再生・農業再生を一体的に行うためのプロジェクトだ。
先日、某社の京都支社長とふたりで彼の拠点に訪れて、12時間に及ぶ、彼のミッション・ビジョンを炙り出すコンサルティングを行った。
 ひと通り、壊滅した海岸を案内してもらって、彼の母の働く料理店でご飯を食べて。事務所に戻って、訥々と彼は語り始めた。
彼は「火を見たい」と言った。東北にあるこの閉塞感をひっくり返したい。ひとが、自らの願う未来に挑戦できるような空気をつくりたい。個人の中にあるちいさな火が、ひとに移り、連鎖的に燃え広がるような、そんな火を見たいのだと。
 Responseの中で、火種を育てること。育った火に気づいて、自覚的なCommitmentとすること。その熱はひとに伝播し、ひとはその熱に感化され。あなたの見たい火は、このあざやかな篝火ではないですか。あなたもそれを、心のどこか知っていたから、すべてが混沌となってその後、まちのひとと対話(Response)をはじめることからスタートしたんじゃないですか。 
 
  • 綺麗事を、綺麗にやる。
こんなことは、もしかすると綺麗事だ。
現実というものはむしろ逆で、”Justice”を求めて迫ってくる。何かを為したい時、わたしにコミットメントが無いとして、果たしてそれは破綻する。人は人が信じているものにこそ影響を受けるから。"Justice"なきところにフォロワーはつかない。そして、ひとりでできる事は限られている。
 
「綺麗事を、綺麗にやろう」
 僕の師である起業家が、言葉、そして生き様でくれたメッセージだ。きれいごとを、きれいに。そんな風に、生きてみようと思っている。僕らのこの小さな会社は、そのちいさな実験場になればいい。
 偶然の火種を祝福しよう。扉を開けて、火種に風を入れよう。育った火を掲げよう。
そんな生きかたで生きた瞬間があったなら、いのちを燃やして生きた、と思える。
 
それはきっと、あざやかな記憶をつくるだろう。
 
 
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