世界について。

 我々は三次元の世界に生きていると言われている。 物理学的には(x,y,z,t)の四次元の世界で、x,y,zをある程度自由に行き来しているわけなんだけれども、そんな話はさておき、時間は一定に流れていくものとして時間を放っておいて三次元の世界に居る。 けれど世界はどうしようもなく人それぞれで、写真が世界を色々な角度で二次元の平面に切り取るがごとく、僕らは色々な角度で世界を切り取る。

 我々は世界を受け止めるのではなく、切り取っているのだ。 以前、東京大学の国語の試験問題で出た、「管理社会と民衆理性」(栗原彬 著)という文章がある。

 「世界は、この子にとっては生きているが、私たちにとっては失われている。この子が大人になるときに、この子もまたそれを失うはずだ。そのことの自覚が、私たちには痛かった。そして、私たちが期せずして一致した思いは、そのような世界との交流を、なんと遠回りしてでなければ回復できないところにまで私たちは来ていることか、ということであった。」

 この文章を初めて読んだ頃、「ふむふむ、我々は言葉(+α)で世界を切り取り、子供は世界を受け止めるということか」などと考えていた。 世界はどこまでこちらに向かってくるのか、僕らはどこまで積極的に世界を切り取っているのか。つまり、世界⇔僕の相互干渉の『積極』さみたいなものを考えていきたい。

 世界は確かにここに在って、僕らには世界が「みえて」居る。けれど僕らは世界を「見に」行く。そうして見える世界、見えていると思っている世界は人それぞれ。ああ、なんだかこんがらがってきた。