- 平均的東大生という嘘

 id:fer-mat 氏の http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/20050311#p3 には、『平均的東大生という抽象的な一者を立てて、それを批判しているわけである。』とあるが、僕には平均的東大生というものは、無意味な仮定であるように思われる。 というのは、周りにいるヤツがみんなみんな変すぎる。 僕も相当変な人だと思うが、まわりは変わったヤツばかりで、未だ実感としては「東大生なんてこんなもの」という達観した視点へ達せないでいる。 通常平均を算出することによって、やりたいことは、複雑な事象の近似であったり、多くの物事を統一的に説明できる要素を抽出する事にある。 個々の物理現象からニュートンが古典力学の法則を帰納したごとくには、「東大生」から「東大生というものを説明できる概念」を抽出できないのである。少なくとも今の私にはできない。 僕の周りに限った事であるのかもしれないが、彼らは、いたって普通に、変で、楽しくて、頼りになるヤツラである。

 もっとも、そういった視点に達した人も知っている。 文科Ⅰ類の新二年生の方である。「東大生なんてみんな豚」「東大生頭悪すぎ。俺より賢いの未だ見たことない。」 ここまで自信を持てるのは中々尊敬できる。 普通のナルシストと言うものは、「俺ってカッコイイ」なんて思っているものだが、「俺顔カッコイイ」とか「僕の自慢できるところは顔です」とか言わずに、横柄な態度やキザな仕草で「自分のカッコよさ」を分かってもらおうとするが、そういう点が逆に陰湿で鼻につく。 彼のように「俺は賢い」と言えるのはある種尊敬に値する。

 話を元に戻そう。 5人の人が居たとして、得点が100、80、60、40、20点であったとする。平均すると300÷5=60点あるいは対象性より60点であるが、この平均点には大して意味は見出せまい。例えば、64、62、60、58、56 であればこの平均たる60には、大体この試験で、ある標本集団を取ると6割方の得点が期待できますよ、という事で意味がある。 大抵の(少なくとも僕の周りの)東大生は変であるが、変さの方向性が違うし、変である度合いは結構大きいように思われる。 従って、平均的東大生というものは大して意味を持たない。 自分の嗜好・志向(オリエンテーション)と違う他者を見つけてきて「平均的東大生」なる虚像を置いて批判することは生産的でない。 それよりは隣人たる一者と向き合って言葉を交わす方が有用ではあるまいか。
 もっとも、言葉を交わさず「外部」から眺めていれば法則を帰納でき、平均的東大生という概念を導出できるのかもしれない。しかし、そのように外からの視点で完成された法則は、表層だけをさらったものに過ぎないし、そういった単純化は、「結果ありき」の論を導きやすい。*1

*1:とはいえ、僕は氏の文章は「平均的」に好きだ。正しいか間違っているかはともかく、切り口が結構面白い。彼の数学論は読み飛ばしている。