美しさについて
- 美意識が高いヤツは偏屈だ
そして面倒くさい。誰かの思い通りにならないところに、彼の人の美意識はある。彼は美しいと思わないあらゆる事にノーをいう。その人が偏屈ではないならば、美意識なんてないだろう。わかりやすい美意識は迎合に過ぎない。もし迎合に美を感じるのではない限りにおいて。
- 美意識とはなにか
誰もが同意するなにかが綺麗、というのは他人ごとの美なのだと想う。それは美意識ではなく。
美意識とは、自分ごとのこと。他でもない、まさに自分の問題として捉えるところに、美意識はあらわれる。
お化粧の美しさに拘泥しないあの人も、テクストの段は緻密に組む。ガハハと豪快に笑うあの人も、生き様の美しさには妥協しない。
美意識からはみ出たなにかは、まさにそれが自分ごとであるがゆえに、時に人を激昂させ幻滅させる。
- 真も善も
美と対比するのに、何がふさわしいか考えを巡らせた。「真善美」という言葉を想起する。けれど真も善も、美の枠内に回収される。美の枠内に。
真実を求めるのは、そこに美を感じるからだ。善でありたいと想うのは、それが美しいからだ。いやそもそも、美意識に従って生きることこそを善と本人は言うだろう。
- 「美意識」と「楽しさ」と
美意識と対比しうるのは「楽しさ」だと思った。美意識と楽しさは、きっと天秤の両側に載る。
生きる上で美意識は人の行動を制約し「しないこと」を決める。楽しさはそこから外部へ向かおうとさせる自由の発露。
- 美意識はその人のアフォーダンス、楽しさは結果
美意識と楽しさの間を揺れながら、僕らは今日も。
ああ、あはれでをかしいのね。
- だから
美意識の高い人と接していきたい。「その」美意識を共有できなくてもいい。そいつの美意識を楽しめればいい。それはつまり偏屈さをだ。
自ら楽しめる人と接していきたい。楽しいことを知っている人は、人生の達人だ。