永井均 『倫理とは何か』 〜猫のアインジヒトの挑戦〜/174191

内田洋平君(http://entrepreneur1986.seesaa.net/ )とやってるアインジヒト読書会の第二回目を池袋で行う。
第一回の模様はこちら(内田まとめ):http://entrepreneur1986.seesaa.net/article/111425332.html
第二回の模様はこちら(内田まとめ):http://entrepreneur1986.seesaa.net/article/112177831.html

手探りでやっておりますが、この本の書いている事を「わかろう」というよりは、
この本をネタに、問いを立てて行き、発散的に思考をしていこう、という感じだろうか。

参加に興味がある人はご連絡を:ryouen[at]gmail.com
(ある程度一章毎に纏まっているので、次回第三章からでも参加できます。
尻を叩きあう関係にはなりたくありません。ある程度読んでこれる人、どうぞ!)

倫理とは何か 〜猫のアインジヒトの挑戦〜
第二章は、「M先生」によるホッブズとヒュームの社会契約の話。
そして、それに対するネコのアインジヒト達の反応。

まず、この章を貫く違和感は、自分/他人の強烈な二項対立だ。
(自然状態に於いて、グループ的協関係で他者・他グループを圧倒するなどを経ずに、1対1対1対1の社会契約に持ち込むのは飛躍がすぎないだろうか?)

さあ、社会契約を説明するにあたり、例によって、囚人のジレンマが出てくる。
だが、その囚人のジレンマは「俺」が大切という視点からは、以下のように書き換えられねばならない。

黙秘「20年牢獄or2年牢獄」
自白「10年牢獄or釈放」
のように。

しかし、その「俺」は相棒の「俺」でもある。
結果、「俺たち」は仲良く10年づつの刑を食らう。

客観的に、そしてあるいは道徳的に見れば、
二人とも黙秘し、2年牢獄に入るのが最適で理性的だ。

だから、社会契約―という想定をした瞬間に解決された別の問題があった。

それこそが、刹那的で、非理性的に利己的なだけの「自然状態」の人間を、
狡猾で、理性的に利己的で知恵ある人間へと引き上げる真の課題が解決されたという・・・。

そんな事をネタにしつつ対話が進み、
話は、ベンチャー、社会起業、社会問題と多岐に渡り、気がつけばこんなマトリクスが完成していた。

まだまだ拙いモデルだが、思考を進めていきたい。