貧困2.0の構造/ 157068

(7/2 17:00 2.2.2追記。)

2008年6月28日、小飼弾氏の邸宅にて、50人規模で行われたサバイブSNS主催OFFに行ってきました!

サバイブSNSというのは、id:reponさんの作った「貧困者の、貧困者による、貧困者のための」SNS

そういうわけで、「貧困」を肴にお酒を飲んできました。

『本当の貧困:餓死寸前』は、既に世界でも10%以下。はっきり言ってマイノリティ(マイノリティだったらええんか、という議論は措く)。そして、本当の貧困者は、そもそも貧困という語彙すら持っていない。
我々が感じる生き辛いという意味での「貧困」(cf.心の貧困)は、貧「貧困」=困っていない事に困っている、という聊か贅沢な悩み。つまりは「貧困2.0」なのではないか?

といった弾氏との会話を受けて、以下、自分なりに考えてみました。

http://d.hatena.ne.jp/thir/20080627/p1
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51073215.html
プラス、このあたりを読んで思ったことをば。


  • 1.問題は何か?―大きな物語の欠如

これまでの日本と、いまの日本の差異って、どこにあるんだろうか? 僕は単純な「昔はよかった、今はクソ」という考え方には反対であって、昔は昔なりの生きづらさがあったり(自由恋愛が無いんですよ!)、今は今の生き易さがあったりすると思う。だが、その生きづらさ・生き易さの質が変わっているんだろう、という事は想像に難くない。

質の差があるとすれば、それは何に起因するんだろうか? それはたぶん、「大きな物語」の有無だ。大きな物語とは「ポストモダン(笑)」のコトバで教えてgooによると

愛による原罪からの解放というキリスト教の物語、
認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語、
労働の社会化による搾取と阻害からの解放というマルクス主義の物語、
産業の発展による貧困からの解放という資本主義の物語
―リオタール『ポスト・モダンの条件』

こんなのが、大きな物語の例。
こういった物語のある社会では、
・仮想敵がはっきりしている → 「承認」を得やすい。団結しやすい。
・神やヒーローが存在している → 生き方のモデルケースが得やすい。

そういった事が言えるのではないでしょうか。

翻って現在は、問題創造型社会(マッチポンプ型社会)なんですよ。仮想敵もそう居なければ(「環境問題(笑)」を仮想敵として飛びついている人も居るけれど)、ヒーローも、モデルケースとしての生き方も無い。そんな社会なんじゃないかなーと思うわけです。それが「資本家は豚だ、殺せ!」「神の名のもとに異教徒を殺せ!」社会(←これも単純化のしすぎではありますが)に劣るとか劣らないとかは兎も角として。

仮想敵の不在・モデルの不在・ヒーローの不在は、目的や目標を不明瞭にします。目的が分からない。目標が分からない。今、何をすべきかが分からない。だけど、マスメディアは不安を煽る。足りないものが分からない。これぞ、貧困2.0。(このあたりの不安さを上手に衝いたのが資格試験ですね。)

  • 2.本当の問題―物語のリライト性
    • 2.1 メタ物語

「大きな物語」が無い事が問題だ、というように書きましたが、大きな物語があっても、各個人の頭の中には、それに良く似た物語が作られたはずです。その個人の物語が、大きな物語がある歴史を作り、変え、壊していった。

つまり、大きな物語というのは実は一つのメタ物語―物語を規定する物語―であるといえましょう。メタ物語には、こういった「大きな物語」の他に
神話や、童話、歴史(history=HI-STORY)、そして、個々人の経験というものがあり、それらが個々人独自の物語を規定していくのでありましょう。

    • 2.2 経験が人を規定する

その中でも、「経験」=自分のこれまでの人生の物語 の、「自分物語規定性」は当たり前ですが、非常に大きい。そして、特に幼少期〜青年期の学校教育と家庭環境という「メタ物語」は外せないポイントだと思うのです。

      • 2.2.1 学校―世界はこんなにも混沌に満ちているのに

現在の学校教育の問題を一言で言うと、「現実社会との大いなる乖離=不確かさの増大し続けていく社会で、確かなものだけを追い求める姿勢」だと私は思います。

明らかに社会は複雑系で、正解なんて無く、誰が何を学ぶべきかなんて、私が何を学んでおくべきだったかなんて、その時になるまで分からない。20年くらい前は寒冷化ヤバイと言っていたのに、今では温暖化ヤバイと言っている、後10年もすれば、日本でも一般の人に「緑化はCO2削減には意味ナシ」「そもそもCO2削減だって意味ナシ」「温暖化はOK。本当にヤバいのは寒冷化」なんて考えが一般に浸透しているかもしれません。(「ほんとうの環境問題」by養老孟司・池田清彦)

そんな世界に居る我々は、学校教育によって「正解がある」という思い込みをさせられます。1+1=2なんて、単なる約束事(1+1=0になる演算をプログラマーの方は日々なさってますよね)に過ぎないのに、前提条件無く唯一の正解のように教え込む。

余談ですが、この「唯一の正解があるよ教育スキーム」の悪弊はハーバード大学のEllen Langerの研究(The Construct of Mindfulness, Journal of Social Issues, Spring, 2000 )でも明らかにされている。同じテキストの、「〜である」「〜だ」「〜です」を「〜かもしれない」「〜である時がある」「〜でありうる」などに変えただけのテキストを使って、2グループに配布し、応用力を見たところ、後者の方が良い成績が出たとか。

兎に角、「足りないことが足りない」こと、「何が問題かが分からない」こと、これらは多くある。そして、本当は問題が何か分からなくたっていいはずなのだ。
id:YOSIZOさんの

承認されてないように感じるのは社会の問題じゃないよ。君ら個人の問題。

というスタンスも、
id:thirさんの

非承認型社会「日本」へようこそ

というスタンスも、きっとどちらも「正解」だろう。それは、何にフォーカスを当てるかによって変わる問題だ。

id:dankogai宅で、id:sync_syncさんに「東大出なら、ヒ○チ行って、結婚すればxx歳で社宅付きで年収x千万貰える課長になれるからうんたら」というお話を聞いた。

だが、東大院→野○證券内定→キック→ヒ○チ→上司と合わなくて鬱→今、転職しようと思っています という先輩を見ていたり、東大生・就活失敗しまくり、な同期を横目で見ていたり、逆に「初年度年収600万。世界一の産業用ロボット会社。ウチの学科卒なら行きたいと言えば行けます!」なんていう、窮屈そうなレール(社内にウチの学科卒の人だけのOB会があるらしい。創業者も同学科出身(苦笑))を見てたりすると、

そんなサクセス・ストーリーは、他人の物語に過ぎなくて、この会社入っておけば安泰、なんて事は恐らくなくて、結局保険になるのは、実力でしかない。だが、その「実力」も何が実力とされるのかは良く分からない。

「学歴なんてほとんど意味がない(偏差値(笑)の高い大学でないとスタートラインに立てない会社もあるのも確かだけれど)」「大学+何ができるの?+何をしてきたの?」を問われる時代にあって、単純な正解を出せる人はどんどん居場所が無くなる。どんどん、コンピューターに取って代わられる。

だけれど、家庭で、保護者は、学歴神話を未だ引きずっている。「学歴社会」という過去を生きてきたのだ。学歴社会という体験から保護者は保護者の物語を作ったのだ。

子供達は、そんな保護者の理想と現実社会の勘違いを直観的に見抜いている。「勉強して、何の意味があるの?」こんな鋭い質問を、疑問を抱ける子供は幸いだ。

子供達の興味や関心を無視して、どこかの官僚が決めた「学ぶべきことと時期リスト」に従って学んで、面白いわけがない。面白く無いのに、唯々諾々と親や教師の言うままに優等生をやっていると、どうなるのだろうか?

親の言うことを聞く。親の言う通りやる。それで人生がうまく行っているうちはまだいい。人生がうまくいかなくなると、親の言うことを聞いたのに、と、親を恨みはじめる。それはすぐに、憎しみに変わる。

しかし、自分の力で決断をすることや、自分で何かを成し遂げたことがないので、一度うまくいかなくなると、もう這い上がれない。そういう指示待ちの落伍者を、社会は必要としない。憎しみは社会に拡大する。かくして、両親のいいつけを守るだけの「よい子」は爆発する。秋葉原事件の起こるわけである。

余談が過ぎました。ともかく、新しいパラダイムで世界は始まっているのに、古いパラダイムの中に居る保護者と、新しいパラダイムに生きられない子供、というのがあるのだろう、というのが此処の小小節で書きたかった話。

保護者は、教師は世界が秩序に満ちているかのように教える。一方、世界は「考えなきゃダメだよ。判断しなきゃダメだよ。」そう迫ってくる。しかし、誰もがきっちり結論を出せるまで考え抜けるわけではない。あるいは、考えたつもりになって安堵できるわけではない。「思考停止できないが、思考停止できないよどうすればいいの?」とオーバーフローする。

そのスタンスは「今、苦労しておきなさい。それは後で報われる」「今やっておかなければ、後で困る」という、勉強→報酬、勉強→罰という図式にも表れている。本当は勉強自体を楽しむのがより正解に近いはずなのに。 子供達はこのように教わるが、これが成り立つのは世界がある程度秩序立っていて、予測可能な時だけだ。いっぱい勉強したって不運な者は居るし、碌に勉強しなかったとて、幸運な者は居る。 にもかかわらず、この図式の教育を受けると「自己責任」論が出てくる。 「いまやっておかなければ、後で困る」という教育は、「今困っているヤツって、やってなかったんだろ。自己責任だろ。貧困者乙」という思考に直結する。 運が悪かったり、きっかけが掴めなかったり、それだけかもしれないのに、全て自己責任かのように語られる社会は、生きづらいに違いない。 ―ちなみに、僕が東大を目指したきっかけは「偶然」でした。一人の先生居なくんば、今ここに居ないだろう。

算数の問題にも、理科の問題にも、社会の問題にも、唯一の正解がある。唯一の正解を書かなければ、×を頂戴する。こういったマルかバツかの学校教育は、デカルト劇場(二分法思考)への入り口になる。

この劇場で観劇を続ければ、自然、不確かさへの耐性が低くなる。不確かさへ勝てなくなる。

「正しい物語」があるかのように錯覚する。「正しい物語」を生きていない自分を卑下しはじめる。別に、他の物語をかたっても良いのに。

「本当の問題」は、物語が状況に即して書き変わって行かない所にある。「大きな物語」が合った時代でも、一度物語から外れてしまった者の末路は暗かったのだろう。

「我儘」というものを考えてみても分かる。我儘は、自分だけの小さな物語に固執した時に起こる。その物語は、永劫、たった一人の物語だ。物語を書き換える勇気無く、それこそ「相性が悪い」「分かってもらえない」と言って自分の物語に固執すれば、そりゃあ、永遠の非モテだ。二人で物語は紡げない。


まとめると
・貧困2.0 = 「目的・仮想敵・足りないもの」が「足りない」
・それが問題になるのは、世界が偶有性に満ちているのに、学校は秩序と正解を好むからでは?

こんなところでしょうか?

  • 3.書き換え可能な私

という題で、続きをそのうち書きたい。