「僕」も「私」も存在しない(その1)/141017

ミームマシーンとしての私(スーザン・ブラックモア)
・複雑な世界・単純な法則(マーク・ブキャナン)
利己的な遺伝子(リチャード・ドーキンス)
から。

 私たちは、「私」が人間の「体の中に(脳に、あるいは心臓に)」居て、この身体をコントロールしていると感じている。目で物を見、口で何かをしゃべり、手足をあやつり、意思決定を行い、生活をする。

 しかし、その「私」は、一体どこに居るのだろう?私たちは、私たちが「ひとつの人格」を持つと信じる。そして、「指先」は意思や意識を持たず、「足」は意思や意識を持たず、「私」が意識を持っており、その指先や足を操っていると感じている:手足は、私の意志で自由にできるのだ。そして、「私」はどこかからこの指令を出す。ではその「どこか」は、身体の中枢。コントロールセンターとしての「私」の「位置」どこなのだろう?

 「脳」というのは正解に近いように思われる。脳は、神経細胞の『スモールワールド的』ネットワークで成っている。では、その神経細胞のネットの「中心」が「私」なのだろうか?

 答えは否だ。

 「スモールワールド」と呼ばれるネットワークには二種類ある。マーク・ブキャナンが言うところの、「貴族主義的」ネットワークと、「平等主義的」ネットワークだ。

 インターネットは「貴族主義的」ネットワークだ。GoogleやYahooといった巨大サイトがとりわけ多くのリンクを持ち、多くのサイトの「中枢」としてそれらを繋ぐ。

 脳のネットワークは、「平等主義的」ネットワークだ。各神経細胞は、ほかの神経細胞と「同じくらいの」数だけのリンクを持つ。

 そう、脳には中枢は無く、何千億という神経細胞、その並列的な処理によって「私」は形づくられている。

 そして、その脳は、遺伝子が自然淘汰の結果として作ったものだ。

 ところで、人間と他の動物の違いは何だろう?それは、文化を持つ事だ。文化は遺伝的手段で誰かに伝えられるのではなく、模倣によって伝えられる。それは例えば日本語が、例えば英語がそうだ。

 日本語が古文の時代の日本語から、現在の時代の日本語へ「進化」したように、英語がシェイクスピア時代の英語から現在の英語へ「進化」したように、文化は何やら非遺伝的な手段でもって、「進化」しているように見える。

 文化的な「進化」を考える為に、遺伝的な「進化」について考えてみよう。遺伝的な進化には遺伝子が関与している。遺伝子の最も重大な特性は何だったか。それは、「自分自身の複製を作る:自己複製子」であるという事だ。

 自己複製子に、自分自身の複製を作る分子に、どうして進化が生じるのだろうか?それは、自己複製子同士の「競争」が起きるからだ。自己複製子自身は単純に自分自身をコピーしているだけだが、より短時間で自分のコピーを作れるものが、より正確に自分のコピーを作れるものが、より長く生存し、自分のコピーを生み出し続けられる者が、結果として競争の勝者となっていく。この「多産性」「正確性」「長寿」は、自己複製子 勝利の方程式!と呼んでいいだろう。

 文化の話に戻ろう。世界は遺伝子という自己複製子にあふれていたが、ある時人間が誕生した。人間は、文化を伝える力を持っている。それはとりもなおさず「模倣」の力である。

 「模倣」とは、マネをする事だ。マネをする事によって、「何か」が複製される。そういう環境に一たび接した時、我々は新たな「自己複製子」を空想する事が許されるはずだ。

 その空想上の自己複製子を「ミーム」と呼ぼう。それが何であれ、模倣によって伝え渡されていくものをミームと呼ぶ。ここで、人間と言う、あるいは、人間の脳という「環境」の中で、今度は「ミーム間の」「競争」が起きるはずだ。

(つづく)