帰納演繹能力の自己言及性 /136782

 賢さを構成する要素というか、頭の良さの一つの要素として、帰納演繹能力というものがある。

 帰納とは、簡単に言えばいくつかの要素から一般的な法則を見抜く事。(太郎も死ぬ。次郎も死ぬ。花子も死ぬ。→人間は死ぬ。)

 演繹とは、簡単に言えば大前提や常識や一般論を目の前の事象に当てはめること(人間は死ぬ。僕は人間だ。→僕は死ぬ。)

 この帰納演繹能力の大切さや、帰納演繹がどういうことか、という事を説明している書物は数多あるのだが、それを伸ばすクリティカルな方法となると、どうにも、見当たらない。

 で、ここ最近考えたトコロ、「帰納演繹能力の自己言及性」というのにその問題の本質があるのではないか?と思った。

 帰納演繹能力の自己言及性とは、ヒラタく言えば、『帰納演繹能力のあるヤツしか、帰納演繹能力は身に付かない』という事。

 どういう事かというと、
帰納演繹能力とは思考のプロセスであって、知識ではないから、「帰納演繹が何か」を単に知るだけではダメで、スキーを身体に覚えさせるように、帰納演繹能力というものを「身体」に覚えさせなければいけない。

 だが、スキーとは違って、「帰納演繹能力そのもの」を「スキーをする」ように身につける事はできなくて、具体的な事例、すなわち

・日常生活の中で帰納演繹
・物理や数学で帰納演繹
・論理学で帰納演繹
・本を読みながら帰納演繹
・テレビを見ながら帰納演繹

というように、個別の分野で行う「帰納演繹」というものを「帰納」することによって、「帰納演繹というもの」を把握し、その把握した「帰納演繹というもの」を個別の分野で使うために「演繹」する事で、個別の分野での優れた「帰納演繹」が可能になる。

図示すると:

こういう事だ。

 だから賢く(≒「帰納演繹能力」をきっちり演繹できる)なる為には、「帰納演繹というもの」を帰納する為には、ひとつでも多くの帰納演繹を繰り返し繰り返しやっていくしかないのだろうか?

 もしそうだとすれば、この事を敷衍すれば、『賢いヤツはもっと賢くなるが、賢くないヤツは賢くなり難い』という恐ろしい事実に気づく。そして、賢くなる努力を怠った瞬間に、どれだけ大きな差がつけられるか、という事も。(n個の要素の関連と、(n+1)個の要素の関連は、(n+1)!/n!でn+1倍変わってくる。最も、それがそのままn+1倍賢いと言うには「かなり」語弊があるのは尤もだが。要素のリンクを張られている率(=深く考えると繋がる)×要素数(=多くの知見や経験で身に付く)というので近似できるだろうか?)

 最近やっと実感せられた事だが、人間はいかようにでも時間を無駄にできる。この瞬間も、世界のどこかで、圧倒的に賢くて優秀なヤツらが、自己研鑽に励んでいるのだろうと思うと、クラクラするほどの焦燥感を感じる。

 だがまあ、それでも僕は、周りの「人」に恵まれているし、実は「焦る」という事はあまり価値が無くて、必要なのは焦りではなくてやりたい事や、やるべき事を熱意を持って淡々とこなすことなので、いくぶん楽観的に構えていてもいいように感じている。