- 遺伝子は美を感じるか。/81425

以下、草稿。ある方の日記を読んでいて思いついた文章。
書きながら自分の知識の無さを痛感。
ほんとうに、何かを感じたとき、何かを決断するときに、その為の知識や能力が無いという事は恐ろしい事だ。
『遺伝子は美を感じるか。』

 「美しいもの」の集合の、その先にあるものは何だろう。「美しいもの」に通底する、法則性のようなものは無いのだろうか。そもそも、我々はなぜ、それを「美しい」と感じるのだろうか。美を司る脳の部分は?

 我々は、美を、嗅ぐ事と味わう事はできない。だが、美を聞くことと、美に触れる事はできる。人間の進化の過程では、目より耳の方が先に存在した。耳は、目よりも、脳の根本に繋がっている。だから、同じ「文章」を目で見るより耳で聞く方が印象深くなる。音楽という藝術、耳によって聴ける美は、目以前にもあったのだろうか。生命のリズム。

 目で見る美、審美に話を限定する。審美は、恐らく目に先行しない。脳はなにを、人に美しいと感じさせたのだろうか。何を美しいと感じる人間が、あるいは人間のプロトタイプが、生存に有利だったろうか。一つは、他の人が美しいと思うものを、美しいと思う美意識だろうか。

 しかしこれは、美のmemeが存在するというだけなのではないか?美のミームは、人の脳から脳を飛び回り、増殖し、あるものを美しいと感じさせる。

 であれば、ミーム的美は、単なるミームの一つであって、普遍的美など存在しない事になる

 しかし問題は、なぜ美がミーム足りうるか、すなわち、なぜ脳は美を感じる必要があったのか、美を感じる進化を遂げたのか、という事である。

 脳が美しいと思うものの全ては、自然の中にあったのではないか。遺伝子がもし、美を知っているとすれば、それは恐らく自然の美だ。人の美的感覚はその自然的美と、ミームによる―教育と流行による―美の、二者の混交ではないのか。

 自然的美は、以下の二つに還元できるのではないか。
フラクタル
・直角
という二つに。
 前者は、自然の中によく存在するパターンである。人間の脳は、表層の事実の奥にある、普遍的なものを求めようとする(汎化)。と、同時に、人の心は言語に束縛されるから、マンデルブロフラクタルという言葉を提唱する以前、自然の中からフラクタルを無意識に無自覚に見抜いた人々は、フラクタル型の構造を美しいと思い、それを取り込んだのではないか。木々も、海岸線も、みな、自己相似だ。

 フラクタルは、ほら、こんなにも美しい。

 後者、「直角」というのは、ステルス建築の話(http://pathfind.motion.ne.jp/stealth.htm)を読んでいて思いついたのであるが、閉塞感というだけでなく、根本的に、人は直角が嫌いなのではないだろうか。「嫌い」というか、違和感があるというか。太古自然の中に、どれほど直角が存在しただろうか?水平は豊富にあっただろうが、垂直なモノがどれだけあっただろうか?

 直角を排し、自然そのものに肉薄するもの(≒フラクタル?)、そういう視点から、今美しいとされているものを眺めると、いったい何が見えてくるだろうか…。

 全ては仮説。遺伝子が美意識を伝えるのか、伝えないのか。それすら私はわからない。もっと学ぼう。最近、時間が、足りない。

画像はwikipedia commonsより。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Mandelbrot_set_with_coloured_environment.png
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/17/Julia_set_(highres_01).jpg

安斎さんの
http://cambrian.jp/anzai/files/MandelNet.png
も美しい。これで20年前とは思えない。