- 趣味は人間観察です。

 僕はあまり人を見ない。人となりや行動パターンなんかは気がついたらある程度「見える」ようになっているのだけれど、昨日どんな服を着てたか、とか、昨日どんな髪型だったか、とか、そういうことはあまり記憶に無い。

 もちろん、誰かが髪型を話題にしたり、とても特殊な服を着てたりしていて、僕の意識にのぼることがあればそれはある程度記憶はされるのだけれども。

 それはさておき“趣味は人間観察です。”と言う人間には碌な人間が居ない。と僕は思う。大体、人間をきちんと観察できていれば、「趣味は人間観察です」と言われた側の反応などきちんと把握していてしかるべきだ。

 だから、「趣味は人間観察です」というその表明自体が、「私は人間を観察しきれていません」あるいは、「観察はしていますが、だからといってそこから何ら教訓は得ていません」という表白と同義である。真の観察者は、そんな間抜けた表明をしない。

 それゆえ「趣味は人間観察です」などと言ってはならないのだ、僕らは。第一、それは「空気」が読めていない。別に空気を読むのが正しいとか、つまんない空気を後生大事に守れとか言うわけではないけれど、空気が読めない人間が、人間が読めるとは思えないからだ。

 だけど、こんな事は誰だってすぐ気づきそうなもんだ。 得意満面で、あるいはクールにさらりと「趣味は人間観察」と言い切る観察者。物憂げに「そうなんだ...」と答える被観察者。ちゃんと「見えて」いれば、そんな表白はやめよう、と思うはずだ。

 それでもまだ、人間観察が趣味であると標榜する人々は存在する。人々にそう言わしめる“人間観察”の力とは何ものか?

 それはおそらく、「優越心への意志」であろう。ニーチェは「力への意志」を説いたが、まさに人間観察の表明は、力への意志なのである。観察者、というものは常に実験体よりも上の立場に居る。被験者は常に、観察者という釈迦の手のひらの上で遊ぶよりない。

 趣味は人間観察だ、という表明はすなわち、私は人間の一人であるあなたも観察していますよ。従って、あなた方被験者より優越性を持つのですよ、という示威なのである。

 「言葉」として外部に表明されながらにして内部の優越心へと帰属するこの表明は、だから、決定的な矛盾を孕むことになる。なぜならその発言は、観察と言いながらも、聞き手を無視した内部の優越性の表白に重きがおかれており、逆に他者に対し無関心である、と言っているようなものだからである。