人生の記憶に残るシーン

  • 記憶に残るシーンだけが

永い生の歩みのなかで、憶えているものだけが想いだされる。当たり前のことでは、あるのだけれど。

感動したもの、憎悪したもの、打ち込んだもの、執着したもの、考えぬいたもの、愛したもの、驚いたもの、しっかりと味わったもの、特別をかぎとったもの、忘れたくないと願ったもの、何気なくぴんときたもの、日々に繰り返されたもの、それだけが想い出される。

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だから、忘れたくないと強く想えるなにかに出会えるかということだし、喪ったとき悲しいと心底想えるほど何かを愛せるかだし、自分のなかで動いた感情をとらえ味わえるかということだし、自分自身の、安心で平坦な日常よりも冒険を選べるかだし、偶然や奇蹟を捉えられる自分であるかということだし。 そういったことで自分自身の人生の記憶を彩り、重ねていくということがあるのだと思う。

願わくは、良い記憶を重ねる人生でありたいし、あなたに・あなたと上質な記憶を創っていける存在でありたい。積み重ねがその人となりをつくっていくような、よい記憶を。

そんな、追憶について。

 

  • 記憶のはじまり

坂道になった、灰色のコンクリートの道路に、丸い滑り止めの凹凸がついている。そこから、去るのだ。憶えている一番古い記憶。奈良から、神戸に引越しをする時の幼き日の記憶。幼心に、喪失を直観したのだろうか。その光景を憶えておきたいと、忘れたくないと、思ったのだった。奈良に居た時の記憶は他にはなく。

不思議な後日談もある。学生の頃、さるコンサルティングファームでインターンをした。仔細省くが、僕らのチームを担当してくださった「チームビルディングの神様」の異名をとる彼は、学生なりに各々優秀でもチームワークのなっていない僕らを徹底的に詰めて「チームビルディング」をしてくださった。そのチームメンバーとは、今でも年に数回は会って食事をする。一応は日本を拠点に、地球を股にかけて働く彼らと会うのは、いつも楽しみだ。

濃厚な、しかしたったの数日で、お互いなにか感じるものがあったのだろう。ひととひとが「ぴんとくる」ということがあって。彼は僕にとって、師匠のような存在となった。インターンという枠組みも、内定を辞退するということをも超えて、今でもひととひとの付き合いをする。食事をして、進捗を話して、彼も僕から何かを持ってかえる。僕も彼に教えを請う。

話の折に、記憶に残っている奈良の話をした。 彼の記憶にも、同じ坂道があるらしかった。ふたりの住処は隣の駅で。19歳離れた彼が大学生だったころ、ベビーカーに揺られ母親に運ばるる僕と彼が、ふと視線を交わしたかもしれなかった。

 

  • しあわせはこべるように

1995 年1 月17 日。阪神淡路大震災が起きる。小学3 年生だった。家具は壊れ、テレビは吹き飛び、部屋の中に混沌が産まれた。寝ていたすぐ横に本棚が倒れ、その上にテレビが飛来し、本棚の背面板を破っていた。家中の食器が割れて、ガラスの欠片を踏まないように、スリッパを探した。その日食べたカレーには、ガラスの欠片が入っていた。

地は裂け、水を噴き出し、美しい神戸は凄惨な廃墟になった。幸い、救援物資は素早く届いた。水を汲んで、電気の復旧しないマンションの階段を登って、家族のために働いた。家族を守ろうと思った。「戦力」になれた自分が、ちょっとだけ、誇らしかった。

近所の友人が、実家に避難するから、と、マンションごと貸してくれた。住んでいた24 階にある家は、水を運ぶには大変すぎた。ひと月くらい、その家に居たと思う。その家の住人のおもちゃや、普段家では見なかったテレビ番組を見て、楽しんでもいた。

子供心にうっすらと感じ取る冒険の匂いと、大変な、日常と、楽しんで生きようとしたことと。そして何より、神戸の人たちが助け合っていたのを覚えている。近くのスーパーが食料品をタダで解放してくれたこと。実家へしばらく行くから、と冷蔵庫の中の食糧を全部くれた友人の母。電気が復旧し、街の傷跡が隠されていく。旧友と自衛隊の炊いた温泉に行って、暖かかったこと。仮設住宅の急ピッチの建設。そこには希望が、あった、ような。

 

今でも、折にふれて「しあわせはこべるように」を聴く。震災の、うただ。

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1. 地震にも負けない 強い心を持って 亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きていこう 
傷ついた神戸を もとの姿に戻そう 支え合う心と明日への 希望を胸に 
響き渡れ僕たちの歌 生まれ変わる神戸の町に 届けたい私たちの歌 しあわせはこべるように 

2. 地震にも負けない 強い絆をつくり 亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きていこう 
傷ついた神戸を もとの姿に戻そう 優しい春の光のような 未来を夢み
響き渡れ僕たちの歌 生まれ変わる神戸の町に 届けたい私たちの歌 しあわせはこべるように
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しあわせはこべるように、なりたいと、今でも心底、そう思う。

 

  • 僕は葬る

学部3年生の時。祖父が亡くなった。大好きな祖父が亡くなった。間質性肺炎という、難病であった。ちょうど神戸に戻っている、夏休みの事だった。

父は居らず、母は難聴だったから、僕が喪主をやった。人工心肺をつけての治療を拒否し、難病に貢献するために、肺の提供/解剖を意思決定した。決断はいつだって、準備ができていないときにやってくる。

死の直前、病院から連絡があり、母親と二人、病室へ駆けつけた。死を感じていた祖父は、後を頼む「仲良うな」と言った。「これだけ立派に育てて頂いたら、どうやっても生きてゆけます。心配はいりません。」と応えた。本当にそのつもりだった。生きていける、僕は。

僕にとっては少々甘過ぎ、少々歳の離れすぎた祖父は、僕の父性のモデルのようなものであった。そんな、父に、いままで育てていただいて、ありがとうございましたと言った。今、言わないときっと、後悔すると思ったのだ。

祖父は、無理矢理に、笑顔を作った。

「わしは苦しいから、少し寝るわな」と言ってから、ドラマとは違ってもう少しだけ苦しんで、

 

そうして帰天した。

 

  • Change means Make the impossible possible.

グラミン銀行のインターン。「なにか、成果を出してやろう」という僕らの前に、ひとりの文字も読めない、生計の途もない、死にかけた、でも元気な老婆があらわれたこと。直截言われた言葉はわからなかったけれど、彼女生き様がまざまざと問いかけてきた現実。聴こえの良い成果を出すのではなく、目の前の彼らに価値を残そうとした日のこと。

 実践する段になって、今度は現地人々の思い込みが障害になって。彼ら自身が状況を変えられないと固く信じていて。でも、メンバーの一人が熱意を込めて、押し切って、それで、なんとかプロトタイプの授業をやってみようと交渉して。そうしたら、実はそんな思い込みは思い込みでしかなかったということ。やる価値のある事は、何かを変えることだということ。何かを変えるとは、不可能を可能にしてみせる事だということ。それが、あなたの幸せに繋がらなくてはその変化の価値など無いということ。みんなが「俺がやった」と思っているオーナーシップの高いプロジェクトのこと。顧客の笑顔から、多くを学んだ。私たちは、たった4 人の非識字者に、だけど事実ほんとうに、自分の名前が書ける能力を与えた。

ムハマド・ユヌスから直截に「世界は変えられる、もしそう望むならば」「明日からのチェンジメーカーではなく、今日からのチェンジメーカーであれ」その言霊が、僕らの中に。

 

  • たからもののような記憶たち。

幸せなことに、たくさんの、たくさんの、大切な記憶がある。それは自分の人生の成長とリンクしているのだとも、思う。

中学受験をサボり倒した日々。ミニ四駆やカードゲームに打ち込んで、大人と戦っていた時のこと。六甲の山を駆け登った中高六年間。ケーキショップやカードゲームの模擬店をつくり、そして何時間もかけてついに公開できなかった映像を創った文化祭。物理部で膨張率を分子間力からの推計と実測を比べたり、万有引力を測ろうと試行錯誤した日々。

夢をいだいてひとり、浪人するために上京して、珍しかった東京の街並み。浪人中、友人と東京タワーに遊びに行った日のこと、ビリヤードをおぼえたこと。

大学の合格発表の直前に失恋して、自分の番号が掲示板にあるのを見つけて「ああ、そうか」とだけ想った、嬉しくなかった合格発表の日。

ちょっと元気になれるかも、と、演劇サークルに入ったが運の尽き。週3の(年の1/4は週5で)身体づくりに勤しんだ日々がはじまり、役者とスタッフのセクショナリズムも、マーケティングの無い広報宣伝も、東大生はお勉強ができるだけのバカだと女の子たちにバレるということも、今ではいい想い出。そうそう合格前にフラれた事を期に、自分ではないものを求めて、キャラクターづくりをして、それも上手く行かなくてやめたりしたっけ。

ビジネスのイロハも知らない仲間たちで、大学受験をサポートするサービスを立ち上げて、ひとりの顧客も獲れずに撤退したこと。最初のたった3人でもう、コミュニケーション不全に陥っていた愛すべき馬鹿の自分たち。中学受験にシフトして、ようよう反応があった感覚。信じてくれた顧客を裏切る結果になった日のこと。顧客が増えて、人が増えて、顧客への「貢献」ということを、すこし実感できるようになった頃。

思い立って、Stanfordの教授にメールを送って、ひとりで飛行機に飛び乗って、StanfordのME317を受講して、d.schoolを見て、サドベリースクールに行って、Googleをひと目見ようと辿りつけずHOPE/Church通りに迷い込んだことだって。終バスの時刻もバス停の場所も分からず、走った夜。次の梅雨の季節、教授の訃報が届いたこと。

賞を獲ると決めて卒論に向かって、賞を貰った卒業式のこと。それより練習を繰り返した発表を終え「見事だったね」という言葉を貰ったあの日のこと。それでも軽い気持ちでぼんやりと大学院に進学して、多大な迷惑をかけて、そして辞めたこと。

あなたと笑いあった日々、泣かせた日のこと、喧嘩した日々、手探りだったとき、見当違いに頑張って、格好をつけてたあの頃。

大学院を辞めた代わりに、イキゴトという会社にコミットしたこと。それでも上手く行かなかった時期のこと。顧客への貢献といいながら、いつのまにか自分自身だけを見ていたことに、気づけたこと。気づいたら「頭のつかえ」がとれて、少しづつちゃんと貢献ができるようになってきたこと。

 

人生の記憶に残るような、濃密で生々しいリアルなシーンが、人生のリソースになっている。人は体験を選ぶことができ、体験によって人はつくられる。

記憶に残るような、激しい、燃えさかるような日々をつくりたい。記憶に留めておきたくなる、穏やかで上質な、あたたかい日々を送りたい。

 

だから、僕の目指す「会社のブランディング」は、クライアント企業が「お客様の人生の記憶に残る会社になること」なのです。