信用不安時代の組織・個人の在り方を考える/310277

  • "信用不安"時代

3.11以降、日本に住む僕らに、じわりじわりと信用不安が広がっている。と思う。ここで言う信用不安は何も、金融のそれではなくて、ひとり・ひとり、が、いったい何を信じればいいのか、いったい誰を信じればいいのか、よく分からなくなっていった、という事を考えている。

それはまあ、そのはずで、絶対的な安定株だった東京電力は暴落し、安全神話原発はメルトダウンして、こっちは元々だったけれど、政府も信用できないということが、リアルな、肌感覚として、分かってしまった。

国家のインフラであり、私たちの生活を支えてくれている電気、の、供給者は、まったく信用ならず、その供給者の管理していなかった原発は、水や食の問題にまで発展した。

そしてはた、と気づく。「何であれば信用できるか」がまだ、分からないということに。自分自身を、騙し騙し「大丈夫だろう」と想定するしかない。

  • 不安と恐怖は、怒りを生む

そういう想定は不安だから、そういう想定はストレスがかかるから、「信用できない」に過剰反応しがちになる。自分を守ろうとすると、むしろ相手に攻撃的になる。

フジテレビが日本より韓国を推している、偏向報道をしている、などとして、そのスポンサーの花王商品が、Amazonレビューで叩かれた。花王の洗剤「アタック」には、200件もの低評価がつき、5000人もの人が「そのレビューが参考になった」をクリックした。

それどころか、テレビ局のスポンサー一覧と、窓口、主要製品名、競合他社名、過去の不祥事、提供番組名が複数人で共同で編集可能なGoogle Docs上で上げられ、1000人もの人が、リストを毎秒更新している。

確かにフジテレビの報道姿勢は「これが偏向報道の証拠だ」みたいなサイトを見てみると、いかがなものか、と思ったりはする。それにしても、怖いくらいの熱気だ、と思う。

  • 「信用」はどこにあるのか

「信用不安」時代に、人々は信用できないものに、過剰に防衛的になる。とはいえ、日々取得する情報、日々摂り入れる食べもの、を、何にするか、私たちは選ばなくてはならない。信用できないものを叩くだけではなく、信用できるものを探さなくてはならない。守るだけでは、拒絶だけでは、人は生きていけない。

それでは信用は、どこにあるのか。不安なときに人は、何を信用するのか。

それは「自分」ということがキーワードになってくるのではないか、と思う。つまり、自分の目と耳で見聴きし、体感したものを信用する。想いに触れ、時の流れを感じ、心を動かされた何かを信用する。

だから、友人や同僚、一緒に仕事をしてきたクライアントのうち「信用できる」と思った人を、引き続き信用する。

そして、その「信用できる他者」が直接見聞きし、体験し、信用したものを、信用する。

つまり「「顔の見える誰か」から見えている誰か」を信用する。

    • 信用は個人の中にある

人を介して、ヒトを信用する。人を介して、モノを信用する。だとすると究極「信用」は個人の中にあるのだと思う。

言葉にしてしまうと、当たり前のことなのだけれど「顔が見える」個人として信用されることが大切。

ソーシャルメディアでは「顔を見せる」――文字通りFacebook顔写真は元より、思考のかかれたBlog記事、思考の断片の見え隠れするツイート、そして、その個人を信用する他の個人によって、自分自身というものを開示することができる。

要するにそれは、判断するための情報の開示であるし、読み手・聴き手に「自分で信用できるかどうかを判断する」機会を差し出すようなものなのだと思う。

例えばBlogに記事を書いた時、Twitterにポストした時、Facebookに投稿した時、提示しているのは:

・どのような事実に反応する書き手なのか
・どのような感情でいる書き手なのか
・読み手と思考が似ているか、似ていないか
・誠実か?誠実ではなさそうか?
・文体から察せられる雰囲気
・誰と繋がっているのか/誰が評価しているのか

こういったものを提示しているのだと思う。

    • 個人の集合体としての、組織

それでは、組織も、信用が欲しいならば、クライアントに、顧客に、消費者に、判断材料を差し出すしかない。

それは、

一体どのような個人が働いているか、という事実であるし、
お客様とどう相対してきたか、という歴史であるし、
商品やサービスに込めた想いを、いかに伝えてきたかであるし、
他者に紹介したくなる感動を、お渡ししてきたかという実績であるし、
宣伝、記事、商品から透けて見える、本音の部分の覚悟と信念

であるのだろう、と思う。


良い事をしている会社、良いモノづくりをしている会社こそ「判断材料」を多く出してくれればいいな、と思う。