せめて、僕の眼がとらえたように

  • 違う世界を、みているというのに。
 僕らはみな、違うように世界をみている。同じ世界を、違うようにみているのか。似た世界を、違うようにみているのか。それはわからない。わからない中で確実なのは、僕がどのように世界をみているか伝える手段は無いのだし、他でもないあなたが、どのように世界をみているか知る手段を持たないということ。
 
 人によっては人工物のレンズを使って、虹彩で光量を絞り、水晶体でピントを合わせ網膜に結像させる。光は電気信号へとエンコードされ、脳に送られ視覚野で解釈される。人工物のレンズ以外は、きっと世界中に2つと同じ形はなく。従って同じ世界をきっと見てはいないだろう。他でもない僕が、他でもないあなたと、どのくらいその差異があるかはいつまでも分からないけれど。
 
 視覚の話だけではもちろん、なくて。同じ物を見たようで解釈は異なるし、人と人との間のズレは、ときに破局へとその姿を還るものだし。分かりあえたようでも現実には以心伝心ではないから、ひとは、ふたつのアプローチをとる。
 
  • 真実には眼を瞑るのか。真実をせめてみようとするのか。
 分かったことにしたいし、分かりあえたことにしたい。鈍感になっていく。無感覚になっていく。迎合していくほうへ、ひとは時に駆動される。「私の感じた真実」よりも、目の前の人と「分かりあえたことにする」のが大切なのだと。真実にはしばし、まどろんでいてもらおう。痺れるような甘美なひとときのために。
 
 僕の中の真実が眼を瞑ろうとしないなら、違いを、自分の感覚を、大切にするよりなくて。その感覚を、言葉を尽くして話すのだろうししたためるのだろうし、つくるのだろうし、表現するのだろうし。わかろうと聴くのだろうし、視るのだろうし、息遣いを表情をとらえようと想うのだろうし、味わおうと感じようとするのだろうし。
 
この両極端の狭間で、あっけらかんともどかしさの間で、危うくもひとは揺れている。ふつうに生きていくには前者が良くて。たいせつな時には後者でありたくて。その間合いのあわない二人はなんとも間抜けで難しい。
 
  • 新しいカメラを買った。


 もう2週間も前になるけれど、SIGMA社のDP2xという単焦点カメラを買った。「ちょっと縁があってSIGMAを」という所も正直なところあるのだけれど、せめて、僕の眼がとらえた真実が、まっすぐに伝わるカメラが欲しかった。自分がいいなと思ったものの、せめて見た目が空気感が、伝わるといいなって。

 きっかけは、こうだ。Facebookで1,2ヶ月くらい前から、ちょくちょく美味しいご飯の写真をアップしている。まあこれが、残念なことに、美味しさがあんまり伝わらないのだ。いい雰囲気の飲食店は、人間の目にはちょうどよくて、ケータイのカメラの目にはちょっと暗すぎる。これじゃあ何も、伝わらないのだ。
 

  • 難しいカメラだった。

 ネット上のあらゆるレビューを読んでから買ったので「知っていた」のだけれど、気難しいカメラだった。パチパチ撮って、そこそこ出来の良い、お手軽なカメラではない。手ブレ補正もついていない。操作性もそう高くない。顔認識なんて無い。単焦点だから当然、ズームも無い。

 でも、光への誠意が感じられるカメラだなと思って買った。RGB全色を捉えるFOVEONセンサーと、そして国内工場で営々と60年レンズをつくり続けたSIGMAのカメラだったから。

 初日には、ひどい写真しか撮れなかったけれど、あらかじめ知らなかったことが徐々にわかってきた。他人に委ねられないカメラだと思った。枚数を撮っていいものを選ぶのではなく、ゆったりと身構えてしっかりと呼吸を整えて「この瞬間」を切り撮るような撮りかたが必要なカメラだと思った。

 

 同じ場所に居て、同じものを、同じように見ているようでいて、僕らは世界をきっと、違うように視ている。違うように視ているから誤解も生まれるし、わかりあうことは難しい。わかりあうことが難しいのは、もどかしいことだけれど、そこに伝える余白がうまれる。表現の余地がうまれる。言葉を尽くして書き、話し、撮り、編集し、仕上げをする。

「分かったつもり」になれる効率のいい平和で便利なコミュニケーションもいいけれど。時間の掛かる一歩一歩な、だけど真摯で豊かな時間。それを持つということを取り戻すのもいいなと僕は思ったのだった。いい写真を撮ることではなく、もどかしくも伝えようとした一枚を撮るという時間そのものを、たいせつにしたい。