学生のためのスキルアップ入門/233362

  • 成長・スキルアップは、練習・訓練から産まれる

 不況、というのも後押ししてか、周りの学生の中にも勉強熱心なヒトは多い。授業をきちんと受ける、だとか、ビジネスマン向けの本を読む、だとか、セミナーや交流会に参加する、だとか。

 しかし、往々にしてそれらは、知識というよりむしろデータをデータとして頭脳に押し込んだだけで、スキルになっていないように思う。スキルとは、再現性を伴う技能であり、例えば足し算ができること。例えば分かりやすいドキュメントが書けること。例えば伝わるプレゼンテーションができること。例えば上手なインタビューができること。

それらが再現性を伴って「できる」ためには、手順、方法論、考え方の理解と共に、その血肉化というものがどうしても必要だ。つまり、時間をとった、練習・訓練が必要だ。

  • 訓練の指針:精度と速度

およそ訓練には、二つのパラメータがある。それは精度と速度だ。この二つのパラメータに気を配りながら、訓練を行うと上手く行く事が多かった。

    • まずは精度から始める。

 足し算を知らずして、足し算を行う事はできない。まずは「精度」からはじめよう。ゆっくりやれば、足し算ができる。ゆっくりやれば、お箸が使える。ゆっくりやれば、良い文章が書ける。ゆっくりやれば、問題が解ける。

 そう、精度―なんとか「できること」からはじめよう。「なんとかできる」と書いたのにはワケがある。理解すること、知識をインプットすることではなく、アウトプットが目指されていなくては意味が無い。足し算の原理を理解する事がゴールではなく、ある程度理解した上で、実際に「できる」事「結果がでる」事が重要だ。

だから「精度」を言い換えるとこうなる:精度の向上とは、より良い結果を目指す事。より完璧を目指す事。

    • 速度を視野に入れる。

多くの人は、「精度」で満足する。だからそこで成長が止まる。次に目指すべきは速度だ。速度を目指す事で、恐らく大多数のヒトと差がつけられる。先ほどできた事を、「できない」くらいのスピードでやる。精度を、敢えて落とす。

大人は「足し算」は、ゆっくりやれば、誰でも完璧にできる。だが、その速度となると、優に10倍を超える。その差は、速度に対する意識の有無と、そこからの研鑽に依る。

 速度を上げよう、というとき、精度を犠牲にしてでも、速度を上げなければならない。例えば、100マス計算が1分でできていたのを、50秒で打ち切りにする。間違えてもいいから、50秒で全部埋める事を目標にする。これまでゆっくりでできたものを、急に高速にするのだから、当然、できない。"Get out of comfort zone"とは恐らくこういうことで、そのできない速度の中で足掻き、精度を上げようとするから、速度と精度が上がる。できる速度に甘んじていれば、そのまま成長は無い。

 同じドキュメントを製作するのでも、半分の時間でできないだろうか。同じプレゼン資料を作るのでも、二倍の速度でできないだろうか。普段の速度を測り、制限時間を決め、やってみる。

    • 速度の限界、手法の更新、結果の向上

 速度にもやがて、限界が来る。この速さでは、どうしてもできない、という時がたぶん来る。その時は、(1)やり方を変えるか、(2)ゴールを変えるかだ。

 (1)時間という制約条件の中で、どうしてもできないから、工夫をする。やり方を変える。今までやってきたプロセスを、ただ高速で踏襲するのではなく、やり方を変えてしまう。例えば、掛け算。九九では限界があると思えば、インドのように20×20まで暗記してしまう。例えば、プレゼンテーション。スライド修正の時間をなくすため、はじめにテキストエディタで軽く全体の構成を作る、というステップを入れて、むしろ全体の時間を短縮する。例えば、エクセルでの処理。マクロを学んで、自動化する。

 (2)足し算や掛け算のように正解が一つで無いものは沢山ある。「スキル」という時、たいていは唯一の正解は無い。だから、ゴールを変えてしまう。目指すものを変えれば、もしかするとより良いものが、より短時間で達成できる。

    • いま、精度と速度、どちらを目指すか


 ゼロから始めるならば、精度から始めた方がいい。でも、今「少しだけできること」に対して、どちらを目指せば良いのだろうか。答えは、たくさん、カジュアルに、失敗ができる方だ。負荷が掛かり、苦しい方だ。まだ試していない方だ。

適切な負荷を掛け続けると、人間とは良くできたもので、それに「慣れ」る。慣れると、その負荷が当たり前のようになる。より過酷な環境への適応は、成長でありうる。

  • 成長という病:

このような「成長すること」を求める人は多い。なるほど不安な社会情勢にあって、能力というのは最高の保険であろうし、ドラッカーが

知識労働者たる者は、仕事のなかに継続学習プロセスを組み込んでおかなければならない。

との喝破したように、成長は競争力の源泉になりうる。

例に漏れず、私もそうだった。成長を求め、読書をし、授業を受け、セミナーに出席し、自己研鑽を怠らない。これら自己研鑽は、確かに今の私の力を幾許か担保する。だが、私は、いつの間にか「成長」を求めなくなった。「学び」にフォーカスする事をやめてしまった。*1

  • 成長:価値を産み出す事

 より成長すると、よりスキルアップすると、より能力が上がると、なぜ「保険」になるのか。それは、より多くの価値をより少ないリソースを用いて提供する事ができるようになるからだ。その度合いを優秀さと定義するならば、優秀な人間は少ない資源で多くの関係各者を幸せにする事ができ、だからこそ市場から必要とされうる。

 しかし、「価値」は個別具体的なものだ。ある何かが価値かどうかは、顧客と、その顧客の置かれた状況に依存する。

  • 準備と本番

 だから、価値提供能力を上げるためには、価値提供の「本番」を重ねるしかない。顧客を想定しない、漠然とした「スキルアップ」は効率が悪いのではないか。そう思うようになった。

 例えばプレゼンテーション一つをとっても、いつかはプレゼンする時もあるだろう、とプレゼン練習を重ねるのと比べ、24時間後の卒業論文の発表に向けて、発表内容と構成を細部にわたって検討し、出席する先生方の顔や専門分野を思い浮かべながら、身振り、手振り、強弱、抑揚に注意をし、制限時間に気を配りながら、老練の教授たちにも少しは価値あるメッセージを吐けるように、【調整】を繰り返すのとでは、練習の質が格段に違ってくる。

 そして何より、提供価値は、必ずしも、自分自身が「既に十分学んでいるか」に依存しない。ちょっとした、「賭ける勇気」や、「偶然との邂逅」あるいは、「気づきと直観」が、成果を大きくわける。これらは、本当に、「顧客」や「問」の息遣いが感じられるほどにフォーカスしてこそ、最大化できる。

  • 自ら本番を創り出す:真摯さ

 同じ卒業論文を書くのでも、「本番」と見なせる人と、そうでない人が居る。真剣に取り組める人と、そうで無い人が居る。もちろん全てに「本番」と思えるわけでもないが、本番であるためには、ある種の没頭が必要であるように思う。その没頭に於いては、成長してやろう、学んでやろう、という打算は、むしろ邪魔になる気さえしている。

 没頭に必要なのは、コミットメントと楽しさだろう。コミットメントとは、顧客との約束を守ること。顧客の期待に対し責任を持つこと。やると決めたことを、きちんとやり遂せること。

 そして、楽しさはまさに、コミットメントから産まれる、と感じる。コミットし、対象を観察し、より深く理解しようとし、好きになる。だから、何かが本番であるためには、没頭できる本番であるためには、コミットメントが必要なのだ。

 ではそのコミットメントは何によって産まれるか。それは偏に、「真摯に考える事」だと思う。なぜならコミットメントには必ず対象が存在し、成果を出すためにはコミットメント対象への「チューニング」いわば、対象との【対話】のようなものが必要で、対話には、自分自身の思考や情動に対して、また、対象の現実に対して、その時限りであっても、真摯であることが求められからだ。真摯さとは、誤魔化さないことだ。嫌なこと、非情な現実、自分自身がよく理解していないという事実、それらを直視するところから、始まる。これらを直視しない「対話」は、単なる表層に留まり、コミットメントに値するような成果を出す事はない。

  • 真摯に考える為に

真摯に考える―誤魔化さないで、現実や、自分の求めるものを直視する―ためには、以下のような事が考えられる。

■抽象化する
◇意味づけする
解釈する・疑う
◇言葉・表現に注意を払う
◇整理する。順序づける。階層化する
◇本質を捉える
◇不要なものを除去する
◇重要なものだけを考える
◇関係、文脈を考える

■具体化する
◇分割する
◇計測する
◇実験・実行・行動する。

■シミュレーションする
◇最善・最悪の場合を考える
◇要素を取り除いてみる
◇要素を付加してみる

  • まとめ

だから、結論としては、こうだ:初めがあって、終わりのある、プロジェクト期間中、ただただ真摯に打ち込む。コミットする。本番化する。振り返り、学び、成長を確認するのは、プロジェクト後でいい。

そして、なにより、そういう本番こそが楽しいのではないか。生きた実感が持てるのではないか。観察し、思考し、洞察し、仮説を立て、検証し、賭け、そして具体的に、誰かの何かを変えていき、価値らしきものが本当の価値へと昇華され、喜びを創り出すときの脳がひりつくような感覚はきっと、音楽やゲームや、ニコニコ動画や、「成長の喜び」と言ったモノでは味わえない。

もし、スキルアップの、自己成長の喜びが守りの楽しさ、安全な楽しさ、箱庭の中の楽しさだとすれば、本番の楽しさは、攻めの、危険な、フィールド上の楽しさであって、その楽しさの質も、経験の質も、前者とは桁違いのように思える。


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*1:とはいえ、英会話とか読書くらいは日々の準備として?やってるのも事実。両輪だろうなー。