もしも自分を変えたいならば、/171312

もしも自分を変えたいならば、
その時の一つの指針になりうるのはきっと、恐怖だ。


恐怖に、どう、対処するのか。
ということ。

まだまだ、なのは分かっているが、思えば僕は、いくつかの「恐怖」を乗り越えて挑戦をしてきた。

挑戦は人を成長させる。
だが、挑戦にはいつも恐怖が付き纏う。

・偏差値30台、東大受けます!と、大それた夢を描いたとき(英語の講師に苦笑されたとき)。
・案の定失敗して、なお「東京で一人で浪人」なんて一歩間違えば廃人コースを選んだとき。
・大学で演劇サークルに所属して、練習を重ね、舞台の幕が開き、はじめの台詞を放ったとき。
・友人と起業して、はじめて生徒の保護者を前にセミナー講師として対峙したとき。
・この間、たどたどしい英語力を抱えてアメリカに行って、見学したい研究室の扉をノックして、中を見せてくれ、と頼んだとき。

どれもこれも、恐怖は「腹」まで降りてきた。
だが、いつも、チャレンジしたものは失敗も成功もともに胸いっぱいの高揚感と共に記憶され、
逆に恐怖に負けてチャレンジできなかったものこそが、腹の底のほうにぷつぷつとたまっている。


恐怖が強いと、自分でアクセルを踏みたい、変わりたい、成長したい、自分をどうにかしたい!
と思いながら、左足では全力でブレーキを踏み続け、たまにアクセルを踏んだって、それは空回り。恐怖に勝てず、結局は現状維持か、もともとできる範囲での挑戦に留まる。

僕がいままで恐怖にそれでも打ち克って、いくばくかのチャレンジをやってこれたのはたぶん


可能性を自ら摘み取る決意


が少しはあったから、ではないかと思う。

それはある種の自暴自棄というか、ぼくはこれをやるのだという集中というか、挑戦しない自分を捨てる決意というか、かかってこいという傲慢であるというか。

と同時に、友人の中でも特に保守的な人々を見ていると、能力があって、優秀で、順風満帆な人生を歩んできたかに見える友人たちが、その可能性の豊饒さゆえにたちすくみ、峻巡し、豊富な可能性を持ちながら、結局は可能性を現実に固着させぬまま時の過ぎるのを待っているのではという感覚さえある。

現実には、なにもしなければ可能性は時と共に喪われるのであるが。


果たして、一度落ちぶれた者が、何らかのきっかけで一念発起。可能性ではなく、現実を掴み取りに打って出て、可能性を後生大切に抱えた「優秀」な人々を軒並みごぼう抜きにし、

「このひと頭よくないし、話していてもあんまり面白くない。日本語の端々に教養のなさが。。。だけど、なんかすっごい行動してるし、なんかすっごい儲けてるし、何冊も本も出してるし、ファンも多いし、この人と居るといいことがありそうだし、そんな場のデザインが上手い。」

なんていう、「聡明さと才能に溢れているわけではないが上手くいっている」大人を何人か知っている。
彼らは、恥も外聞も捨てて、挑戦する事、行動する事の実り多さを、ぼくに教えてくれる。

彼らに問うと、彼らにはもはや「行動する事の恐怖」なんて無いという。
彼らは、ただただ行動して、失敗して、もっと行動して、失敗して修正して、成功して、行動する事がより楽しくなって。
恐怖なんて、無いという。



そう、もしも自分を変えたいならば、越えたいならば、ひとつの指針はきっと、恐怖だ。


ある大人のかたが、こんな事を言っていた
「成長には、不可逆的な変化が必要だ」
やはりこと成長という側面を考えると、その不可逆的な変化を与える一番簡単な方法は「恐怖を乗り越えること」であるように思う。

一度恐怖を乗り越えると、その程度の恐怖は、
「もう乗り越えられたもの」「安全な恐怖」「恐怖すらもう抱かない」「今回もまたやってみっか」となる。


保護者を前に、初めて、
自分で企画し、仲間と協力し、セミナーをやった日の終わりには、くたくたになった。
緊張した。恐怖した。ミスもあった。
だが、やはりそれだけの大仕事をやったという達成感があった。

果たして二回目は、むべなるかな、
一度目より、はるかに、はるかにリラックスして臨む事ができた。
以降、セミナー規模のプレゼンで緊張する事など無くなった。

この間なんて
ある業界ではTopの技術系の会社にお邪魔して、
プレゼン聞きながら会社のかたのプレゼンのフィードバックをするプレゼンを作ってしまい、生意気にも改善案の提案プレゼンをやった。


一度。一度でいい。
何かの分野で大きな恐怖を乗り越える体験は未来の自分を大きく変える。


それはきっと何故かというと、
「恐怖を乗り越えて何かをやってみて検証」すると、


恐怖の源泉である、マイナスの想像力
が働かなくなるからだ。

マイナスの想像が、現実には妄想であったと証明される。


そして次回から、

こんな事して好奇の目で見られたらどうしよう、だとか
こんな事書いて誰かの怒りを買ったらどうしよう、だとか
これで失敗したらこのチャンスが消えて人生おしまい、だとか


そんな一切の妄想が、消えてくれる。少なくとも、妄想であろうと対象化できる。
対象化できれば、すぐにそれを上回るメリットや楽しさを以って打ち消す事ができる。

逆説的であるが、
恐怖に打ち克つ為には、一度大きな恐怖に打ち克つこと

こそが必要なのかもしれない。
だが、一度それを乗り越えるメリットは余り有り。


そして、恐怖に打ち克ち何かをチャレンジする付加的なメリットがあって、これも見逃せない。
そのメリットは、付き合うと大きなマイナスになる、

自分が変わったり成長したりする代わりに、誰か他人を貶したり足を引っ張ったり、
真っ向反論する代わりに空気を読めと言ってみたり正義を装ってみたりする

ようなメンタリティを持つ人々と、距離をとれる(向こうから離れていく)ことだ。
彼らに同調せざるを得ないくらいなら、攻撃された方が幾分楽だから、こういった人々と時間をあまり共有しなくていい、というのはこの上なく幸せだと思う。

そして、そういう人と付き合う代わりに、
同じように恐怖を乗り越えていて、失敗から犯人捜しや責任者を捜し始めるのではなく改善案を探し求めるような人々と付き合える。この人たちは、他人の足の引っ張り合いには興味がある事が少ないので、むしろ情報をシェアしあい、新しい世界を見せてくれる。



普通は、人間なんて一気に変わる事はなくて、
英語の勉強と同じく毎日コツコツ習慣化、が基本なのだと思うけれども、

「腹まで降りてくるような恐怖に打ち克つチャレンジ」
は、一回やっておくと、それが記憶に焼き付くので、
一瞬で、自分のキャパシティが広がる気がする。

*まとめ*

自分を変えたいならば、恐怖を乗り越える体験をすべきだと思う。

一度大きな恐怖を乗り越えておくと、次乗り越えるとき楽になって、
それは要するにチャレンジの閾値が下がったということ。より行動的になれるということ。
そして、そういうチャレンジを繰り返しておくと、ダークサイドの人々と距離を置く事ができる。