「わかった!」てどういうこと? あるいはたとえ話の威力。/141906


 誰でも「わかった!」「なるほど!」体験をした事はあるはずだ。みんなは「足し算」と「掛け算」を「わかって」いる。少なくとも演算が出来る。あるレベルで足し算や掛け算という概念に親しみ、それを「分かっている」と思っている。

 「分かる」という事の一つの構成要素は、GEBの言う「同型対応」じゃあないだろうか。

 足し算を、僕がどうやって「分かった」かは記憶に無いが、何か新しいものを身につける時「これはこういうものです。」「これは定義です。」と言われても僕にはさっぱり「分からない」。アンテナが立たない。

 「ここにリンゴが二つあるよね。あっちにはリンゴが3つあるよね。あっちからこっちにリンゴを3つ持ってきた。ほら、全部でこれいくつ?」というような例を出されれば、(実は『足し算の数学的な理解』には程遠いのに)僕らは「理解」をする。あるいは「理解したという勘違い」をする。

 これは、足し算という算法の構成要素の一部と、リンゴというモノの数の関係の一部が

数字 = リンゴ
プラス記号 = もってくる
足される数 = 元々持っていたリンゴ
足す数   = 持ってくるリンゴ
こたえ   = 合わせた数

のように対応するからだ。

 この対応を見つけて、人は「理解したつもり」「理解した勘違い」をする。(この「理解した勘違い」に気づくのは繰り上がりや、少数や、分数の出てきた時だろうか?)

 しかし、たぶん最初は「分かった!という勘違い」が大事なのだ。「分かった」と思った事には、人は心を開くが、「分かんない(し、つまんない、し価値があると思えない)」事には好奇心が『閉じる』。


 リチャード・ファインマンという(ノーベル賞取ったけどストリップ好きの)超有名な物理学者が、量子力学について以下のように言った。

 「"量子力学"は物質と光の性質を詳細に記述し、特に原始的なスケールにおける現象を記述するものである。その大きさが非常に小さいものは、諸君が日常直接に経験するどのようなものにもまったく似ていない。それらは波動のように振舞うこともなく、また諸君がこれまで見たことのある何物にも似ていないのである」

 「量子力学」というものがとびきり難しくて、分かりにくくて、まれに疑似科学にまで使われ、何やら神秘的な香りを帯びてくるのは、こんな所に理由の一端があるのかも、しれない。だって、似ていない=同型対応しない のだから。


 さて、「同型対応」が大事である事に気づくと、「頭の良さ」の一端が見えてくる。同時に、インプットの大切さも見えてくる。

 あなたより理解力の優れた「アイツ」は、

1.対応させるべき、結びつけるべき知識や経験をより多く持っており
2.状況や目の前の問題に対し、その「同型」を素早くサーチし
(3.「分からない」と思ってもすぐ諦めない。)


んじゃないだろうか。

 2.がどうすればより素早くなるのかは僕にはまだ分からない。だから、今は1.を。 興味を持てる目の前の本を・面白いと思う何かを・知りたいと思う世界を知っている人から、どっぷりと、大量に、インプットするのが、良いのかもしれない。