- 僕は葬る bokuha okuru

20代で、まさか喪主をするとは思わなかった。


決めるべき事が、多い。

祖父は肺炎であった。
それも間質性肺炎という、難病であった。

肺炎がもし薬による治療で治らなかったとき、どうするのか?

決めた。
もし管を突っ込んで、人工肺をつけての治療をすると、会話が不可能になり、回復するか死ぬまで、
管を外す事ができず、また、管を入れていると体に負担が掛かるのでずっと薬で眠ったような状態になる。
これを拒否し、苦痛を和らげる方向で治療をしてもらう事を決めた。


間質性肺炎という難病への、医学的な貢献という観点から、 解剖に同意したのも僕だ。
これもまさか自分がそういった事を聞かれるとは思わなかった。


そもそも、人の生なんてものは、決断の連続だ。その時ただ、誰か他人の判断に従うしかなかったり、
あるいは、その決断の為に必要な何かが自分の中に欠けているとすれば、それは間違いなく恐ろしい事だ。

解剖をしてくれ、と言うには、さすがに躊躇した。


だが、もし、肺にメスが入るのを拒否するなら、一切の体躯を焼く火葬も、治療の為のある種の切除も拒絶しなければ、一貫性がない。

もっとも、遺族(母)の「こころの問題」はある。

最後は綺麗な顔で別れたいというのは、自然な心情だ。よくわかる。
だが、肺だけで、顔や他の所には傷がいかない。むしろ病院の人が洗って整えてくれるという。

また、宗教的な問題もある。「極楽浄土」へ逝ったとき、肺が無ければどうするのか?という問題だ。

だが、残念ながら片肺は癌に埋められ、もう一方を肺炎に占拠された祖父には、もう、どうせ、正常な肺はないのだ…!

解剖に、決めた。

夜23時28分、病院からきてくれと電話あった後、とわの眠りについた朝4時14分まで、約5時間。つきっきりであった。

祖父が眠ってからさらに40分後くらいに、その解剖の決断を迫られたのであったか。
さすがに、自身の思考力を何度か疑った。今も疑っている。
だが、それで、結局、よかったのでは、と思っている。

母と二人、病院についたとき、「後を頼む」「仲良うな」と言われた。

「これだけ立派に育てて頂いたら、どうやっても生きてゆけます。心配はいりません。」と応えた。

耳に障害があって、何も聞こえぬ母に、僕を評して「この子は偉い。心配いらん。」と、酸素マスクの下から言っていた。あとで、伝えてやろう。「僕は偉い。」

母は離婚していたから、僕には父は居なかった。僕にとっては少々甘過ぎ、少々歳の離れすぎた祖父は、僕の父性のモデルのようなものであった。

そんな、「父」に、「いままで育てていただいて、ありがとうございました」と言った。

どうも、僕も祖父も、この数日、別れ方を模索していたように感じられた。

祖父は、無理矢理に笑顔を作ったあと、「わしは苦しいから、少し寝るわな」と言った。

ドラマなら、ここで死ねる。だが、ドラマでない現実では、祖父は数時間苦しんだ。

僕は彼の手を握っていた。
何度か看護婦を呼んだ。最後まで頭脳は明晰なようであった。もとより、工夫の人であった。

ゼイゼイと言う呼吸が止まって、酸素マスクの風音だけになった。

寝たのだろうか、と思った。看護婦が、この「寝た」時に、奥の方にある痰をとってよいかと聞いた。取ってもらうことにした。

ふと思って、手首に指を添え、脈を測った。鼓動はなく、冷たい。

看護婦が、心の臓の鼓動を確かめようとした。すると一瞬、身体が跳ねた。

たぶんこの時、絶命したのだろう。僕はある種の確信を持って、時計を見ようとした。

母は、「4時5分」と言った。


ナースコールを押して、当直医と看護婦たちが来た。鼓動を、瞳孔を調べ、医師は、彼女は、宣言した。


彼はきっと、幸せな人生を過ごせたのだ、と、僕は信じる。こんなにも立派(になる予定の)孫がいるんだからね!



そろそろ祖母とは、会えただろうか。