科学的思考のススメ(1:数値のトリック)

 よく、新聞記事を見ていると、一見「論理的」であるが、飛躍のある論理を目にする。あるいは、読者の「感覚」を弄び、記者の望む結論に誘導しようとしているような記事を目にする。

 「論理」というものは、その昔、寺田寅彦が看破したように、「同じことの繰り返し」である。これを、同じことではなく「似たことを繰り返せ」ば、一見論理的でありながら、導かれる結論を自由に誘導できる。AならばBも、BならばCも、CならばDも一見飛躍が無い。しかし、AとDを比較してみると、全く異なる事を言っている、なんて記事がよくある。いわば、『論理でケムに巻こうとしている記事がある。』そこで、メディアリテラシーという見地から「科学的思考」なる概念を薦めてみたい。


1. 多いか少ないか。
 多寡、あるいは、大小という概念は、人の感覚を簡単に欺く。というよりも、感覚が欺かれやすいようにできているというべきなのかもしれない。たとえば、冷蔵庫の中は大体同じ温度であろうが、金属製のものを触ると、プラスチック製のものよりも遥かに冷たく=温度が低く感ぜられる。

 同じように、多寡という概念を弄せば、記者は人を欺ける。世の中には多くの数字があり、数字を用いて印象を操作する事が可能である。このことは極端な例で考えてみたらよくわかる。例えば、歴史的発見あるいは科学の発展によって、以下のような「事実」が露見したとしよう。『2000年前の日本では、犯罪は年間300件であった。』この「事実」に、例えば以下のように記者は印象を付け加える。『2000年前の日本では、犯罪は年間300件「しか起こらなかった。」』

 このような例であればわかり易い。2000年前の日本で犯罪が年間300件しか起こらなかったとして、それ自体が「多いか少ないか」と論じるのは無意味である。「多いか少ないか」という事は、何かと比較して初めて役に立つ概念である。

 もちろん、日常生活においては「常識」というものがある。ある生き物が卵を50億個産むと知れば「多いなあ」と思うし、セミは地上で数日間しか生きないと知れば「少ないなあ」と思う。これは我々の常識―例えば、人間は同時に複数人出産しても、例外はあれども一度に2人くらい。一度に10人を超える事はまずありえない。人間は病気などにならなければ、事故や事件に巻き込まれなければ、大体数十年は生きる―という常識に照らして多寡の判断をしているのであるが、この場合、比較対象が省略される。

 多いか少ないか、という概念は、今見てきたように、比較対象が省略されがちな概念であるが、比較対象が無ければ意味を持たない。ある数値単体では、単なるデータであって、そこに意味を見出すことは難しいのである。


2.比較対象と方法
 次に「何と比べるか」というのが大きな問題となってくる。まさか地球の人口と砂粒の多さを比較して「人類はその数に於いて砂粒に負ける」と結論する者はあるまい。いや、事実人類は砂粒の多さに負けているのであるが、その「事実」には意味が無い。比較対象を巧妙にずらす事で、あるいは、前述のように比較対象を明示しない事で、悪意ある記者は市民を騙すことができる。 ―いや、時にはその多寡を、何と比較すればよいのかわからない時さえも、あるのだ。

 比較の方法も多寡を決定する重要な要素だ。それは例えば、ちょうど以下のような記事(数値は適当)が意味を持たないのと同じだ。『2000年前の日本では、犯罪は年間300件しか起こらなかった。現在の日本では3万件である。日本人は100倍堕落している。』

 この記事の大きな欠陥の一つは、数値をそのまま比べているという事である。犯罪件数の増減を単に知りたいのであればそれでよいが、こういうときは、割合で比較せねば無意味である。そのときの日本の人口は今の何分の一であったのだろうか、犯罪『率』はどうなのか…。正しい比較の為に、考えるべきことは多い。 もう一つの欠陥は、「100倍堕落」とは一体何か、という問題である。この問題は、次章に譲ろう。


3.人間の感覚と掛け算
 2倍、3倍、という概念。「割合」の概念で、数値を弄る事がよくある。だが、「同じ二倍」でも、意味、というよりは、我々の生活に影響する程度が全く違う、という時がある。悪意ある記者はこのあたりを故意に混同して、市民を欺きうる。

 例えばそれはこんな感じだ。「○○年度で日本の赤字国債発行額は100円から200円への二倍となりました。」というのと「○○年度で日本の赤字国債発行額は100兆円から200兆円への二倍となりました。」というのでは全く異なる。前者であれば笑っていられるが、後者であれば笑うしかなくなる。

 また、人間の感覚、というのは往々にして「対数メモリ」でできている。対数は高校で対数を習った人であれば誰でも知っている概念であるが、この場合は“常用対数”の対数メモリである。簡単に「対数メモリ」の説明をすると、このような事だ。

 ある刺激が別の刺激より感覚的に約2倍に感じられる時、機械で測定すると約10倍の刺激である。
 3倍に感じられる時、約100倍である。

 これは有名な事実で、我々のよく接する「単位系」にも現れている。テレビなどで、騒音問題やら何やらを取り扱う時、dB(デシベル)という単位を聞いたことがあるだろう。ところがこのデシベルという概念、音楽や音の大きさを扱うもの専用の単位ではなく、人間の感覚に合う様に数値を「レベル化」したものなのだ。だから、色々な、人間の感覚の関係するところでこのデシベルという単位、あるいは対数化という概念が出てくる。

 音の大きさに絞ると、20dBと60dBでは、人間の耳には3倍大きい音に聞こえるが、音圧(機械で測定した「ちゃんとした」大きさ)では、100倍の大きさの違いだ、という事になる。

 このように、人間の感覚の関わってくる所で、数値に二倍、三倍、と言う事は、往々にして意味がなかったり、「過敏な二倍」であったり、「鈍感な二倍」であったりする。こんな詐術に負けないように、数値やその多寡には用心しよう、と書いて、次回に回したい。