“つもり"時代へ

 現代は「つもり」製造装置が溢れる時代だ。さまざまなモノがさまざまなカタチで「つもり」を提供する。そうして人々は「つもり」を買う。愛の歌は「そんな風に愛した事のある“つもり”」を提供し、ハウツー本は「わかった“つもり”」を提供する。

 現代人はよく「時間が無い」「忙しい」という。なるほどそうすると“つもり”が流行るのは尤もなことだ。忙しいと「時間をかけて本当に理解する」ヒマなどありはしない。けれど「知らない」「無関係」でいるわけにはいかない時がある。そういう時に“つもり”をなぞるのが最上だ、という事になる。

 社会人や大学生が「本当の友達はやはり大学よりも中学や高校時代の...」というような事を言うのをよく耳にする。高校の校長が卒業式で「わが校で共にすごした友人は、一生の友人です」という。そうして、そうなのだろうな、と首肯できる。逆に大学からの仲良い知り合いが皆が皆そうかと言うとこれは無批判に首肯できぬ気がする。これも一種の“つもり”を重ねた結果ではないだろうか。

 高校時代と違い、大学に入ると所属するコミュニティが多くなる。それまでのコミュニティや交友関係に加え、大学の学科やクラス、バイト先、人によっては寮、部活やサークル、etc... . そうして、「酒席」というのを通して急激に急速に仲良くなる。新歓コンパでは、はじめて会う人に対して出身地や高校を聞いてみたり、共通の話題で盛り上がったり。急速に親しくなってしまう。中学や高校時代には凡そ考えにくい構造で「仲良く」なっていく。確かに大学生や社会人のように所属するコミュニティも多くなって、時間が分散されるようになればそうやって、色んな人が色んな人と「急速に仲良くなる」のは合理的だ。同じサークルや部署の人の大部分と「あの人誰?」では運営していけないから、「まあお酒でも飲んで仲良くなりましょう」ということになる。

 けれど、やっぱり他人なんてものは。 もちろん自分自身もだけれども、人間なんてものは、“理解”するのは本当に難しくて、一緒に何かを作ったり、創ったり、遊んだり、喧嘩したり、並んでくだらない授業を受けて感想を言い合ったり、そういうバックグラウンドを通して少しづつ少しづつ「理解」しようとしていくしか方法は無いわけで、やっぱり多くの時間というバックグラウンド無しにお酒を飲んで急速に仲良くなると、そのままだと「仲はいいけどよく知らない」なんて事になる。それって、とても怖いことじゃないだろうか。

 やはり“つもり”を、この場合は「酒席」が。 つまりは「居酒屋」が「酒」と「つもり」を提供しているわけだ。我々はお金を出して酒とつまみとつもりを買う。お金を出すのはそれが楽だからだ。時間が掛からないからだ。その事には価値がある。結局“つもり”というのはそういう楽をするための装置で、だからこそ人が欲しがるのかもしれない。とりもなおさず我々の文明は楽をするための努力の延長線上にあるのだし。

 現代人は忙しい。所属するコミュニティも多い。だから、ひとつひとつ積み重ねていくヒマなんてありはしない。それで「つもり」になって、「つもり」を購入して、「つもり」で生きる。確かに合理的だ。だけど、本当に時間をかける価値ある物事はあるはずだ、と僕は思うのだ。だって、表面だけ何かを理解した「つもり」になってめでたしめでたしでは、何も「本当に」理解しないままでは、あまりに空虚じゃないか。

 この「つもり」は、「レッテル貼り」の構造と似ている。誰かを、何かを、本当に理解するのは大変に労力の要る事だから、あいつはああいうやつ、これはこういうもの、とレッテルを貼って理解した「つもり」になる。「AはBである」とレッテルを貼る。明快だ。こう理解していれば、あれこれ思い悩む必要もなく、わかった「つもり」が維持できる。自分の正当化もできる。だから、レッテル貼りというのは、要するに「つもり」製造装置の一種なのだ。

 人々は間違いなく「つもり」を欲しており、市場は「つもり」で溢れている。 時間は有限だけれど、溢れる情報や処理すべきタスクは無限に近いから、もちろん「つもり」を上手く使う事は大切だ。でも、どこかで腰を入れて、何か一つの事にたっぷりと時間をかけて、そうして着実に理解しようとする、という経験は「よく生きる」為に必須の経験じゃないかな、と僕は思うわけだ。きちんと理解した事の無い人間なんて薄っぺらだ。なにかときちんと向き合って、何かの内奥をじっと見つめる、そういった自己洗練を、自らする人間になりたい。

 そういえば高校の時、校庭の石碑に刻まれた碑文があった。初代校長の辞で、「すべてのものは過ぎ去り、そして消えて行くそのすぎ去り消えて行く ものの奥に在る 永遠なるもののことを 静かに考えよう」とあった。もう半世紀くらい前に言われた言葉なのだそうだけれど、彼は「本物」とか「真理」とか「つもりでない」ものを考えてみようとした人なんだろう、と思った。

 「本物」とか「真理」とか「つもりでない」ものって、自明のようで、そうではなくて、やっぱり「つもり」を重ねていくしかないのかなあ、と思う。理解したつもりになって、予想して、期待や予想を裏切られて、それで予想を修正して、次の「つもり」を形作っていく。いわば、経験や現実が示す事実から導いた法則を、さまざまな検証を経る上で「信じる」ように。

 結局、本当に理解するためには、「つもり」で留まらないように、どんどんと「つもり」を洗練させていく事が大切なんだろう。僕らははじめは「つもり」でしか理解する事ができないから、それを重ねていく。それには、ただ「つもり」で終わるよりは時間も労力もかかるけれど、そういった「本物追求」の面白さみたいなものはあるんだろう。その面白さを感じる心を好奇心、と呼ぶんじゃないかなあ。そんな「好奇」を、忙しいならば忙しいなりにでも追求して追究していくことはきっと、価値ある事なのだ、と思う。