人生の記憶に残るシーン

  • 記憶に残るシーンだけが

永い生の歩みのなかで、憶えているものだけが想いだされる。当たり前のことでは、あるのだけれど。

感動したもの、憎悪したもの、打ち込んだもの、執着したもの、考えぬいたもの、愛したもの、驚いたもの、しっかりと味わったもの、特別をかぎとったもの、忘れたくないと願ったもの、何気なくぴんときたもの、日々に繰り返されたもの、それだけが想い出される。

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だから、忘れたくないと強く想えるなにかに出会えるかということだし、喪ったとき悲しいと心底想えるほど何かを愛せるかだし、自分のなかで動いた感情をとらえ味わえるかということだし、自分自身の、安心で平坦な日常よりも冒険を選べるかだし、偶然や奇蹟を捉えられる自分であるかということだし。 そういったことで自分自身の人生の記憶を彩り、重ねていくということがあるのだと思う。

願わくは、良い記憶を重ねる人生でありたいし、あなたに・あなたと上質な記憶を創っていける存在でありたい。積み重ねがその人となりをつくっていくような、よい記憶を。

そんな、追憶について。

 

  • 記憶のはじまり

坂道になった、灰色のコンクリートの道路に、丸い滑り止めの凹凸がついている。そこから、去るのだ。憶えている一番古い記憶。奈良から、神戸に引越しをする時の幼き日の記憶。幼心に、喪失を直観したのだろうか。その光景を憶えておきたいと、忘れたくないと、思ったのだった。奈良に居た時の記憶は他にはなく。

不思議な後日談もある。学生の頃、さるコンサルティングファームインターンをした。仔細省くが、僕らのチームを担当してくださった「チームビルディングの神様」の異名をとる彼は、学生なりに各々優秀でもチームワークのなっていない僕らを徹底的に詰めて「チームビルディング」をしてくださった。そのチームメンバーとは、今でも年に数回は会って食事をする。一応は日本を拠点に、地球を股にかけて働く彼らと会うのは、いつも楽しみだ。

濃厚な、しかしたったの数日で、お互いなにか感じるものがあったのだろう。ひととひとが「ぴんとくる」ということがあって。彼は僕にとって、師匠のような存在となった。インターンという枠組みも、内定を辞退するということをも超えて、今でもひととひとの付き合いをする。食事をして、進捗を話して、彼も僕から何かを持ってかえる。僕も彼に教えを請う。

話の折に、記憶に残っている奈良の話をした。 彼の記憶にも、同じ坂道があるらしかった。ふたりの住処は隣の駅で。19歳離れた彼が大学生だったころ、ベビーカーに揺られ母親に運ばるる僕と彼が、ふと視線を交わしたかもしれなかった。

 

  • しあわせはこべるように

1995 年1 月17 日。阪神淡路大震災が起きる。小学3 年生だった。家具は壊れ、テレビは吹き飛び、部屋の中に混沌が産まれた。寝ていたすぐ横に本棚が倒れ、その上にテレビが飛来し、本棚の背面板を破っていた。家中の食器が割れて、ガラスの欠片を踏まないように、スリッパを探した。その日食べたカレーには、ガラスの欠片が入っていた。

地は裂け、水を噴き出し、美しい神戸は凄惨な廃墟になった。幸い、救援物資は素早く届いた。水を汲んで、電気の復旧しないマンションの階段を登って、家族のために働いた。家族を守ろうと思った。「戦力」になれた自分が、ちょっとだけ、誇らしかった。

近所の友人が、実家に避難するから、と、マンションごと貸してくれた。住んでいた24 階にある家は、水を運ぶには大変すぎた。ひと月くらい、その家に居たと思う。その家の住人のおもちゃや、普段家では見なかったテレビ番組を見て、楽しんでもいた。

子供心にうっすらと感じ取る冒険の匂いと、大変な、日常と、楽しんで生きようとしたことと。そして何より、神戸の人たちが助け合っていたのを覚えている。近くのスーパーが食料品をタダで解放してくれたこと。実家へしばらく行くから、と冷蔵庫の中の食糧を全部くれた友人の母。電気が復旧し、街の傷跡が隠されていく。旧友と自衛隊の炊いた温泉に行って、暖かかったこと。仮設住宅の急ピッチの建設。そこには希望が、あった、ような。

 

今でも、折にふれて「しあわせはこべるように」を聴く。震災の、うただ。

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1. 地震にも負けない 強い心を持って 亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きていこう 
傷ついた神戸を もとの姿に戻そう 支え合う心と明日への 希望を胸に 
響き渡れ僕たちの歌 生まれ変わる神戸の町に 届けたい私たちの歌 しあわせはこべるように 

2. 地震にも負けない 強い絆をつくり 亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きていこう 
傷ついた神戸を もとの姿に戻そう 優しい春の光のような 未来を夢み
響き渡れ僕たちの歌 生まれ変わる神戸の町に 届けたい私たちの歌 しあわせはこべるように
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しあわせはこべるように、なりたいと、今でも心底、そう思う。

 

  • 僕は葬る

学部3年生の時。祖父が亡くなった。大好きな祖父が亡くなった。間質性肺炎という、難病であった。ちょうど神戸に戻っている、夏休みの事だった。

父は居らず、母は難聴だったから、僕が喪主をやった。人工心肺をつけての治療を拒否し、難病に貢献するために、肺の提供/解剖を意思決定した。決断はいつだって、準備ができていないときにやってくる。

死の直前、病院から連絡があり、母親と二人、病室へ駆けつけた。死を感じていた祖父は、後を頼む「仲良うな」と言った。「これだけ立派に育てて頂いたら、どうやっても生きてゆけます。心配はいりません。」と応えた。本当にそのつもりだった。生きていける、僕は。

僕にとっては少々甘過ぎ、少々歳の離れすぎた祖父は、僕の父性のモデルのようなものであった。そんな、父に、いままで育てていただいて、ありがとうございましたと言った。今、言わないときっと、後悔すると思ったのだ。

祖父は、無理矢理に、笑顔を作った。

「わしは苦しいから、少し寝るわな」と言ってから、ドラマとは違ってもう少しだけ苦しんで、

 

そうして帰天した。

 

  • Change means Make the impossible possible.

グラミン銀行インターン。「なにか、成果を出してやろう」という僕らの前に、ひとりの文字も読めない、生計の途もない、死にかけた、でも元気な老婆があらわれたこと。直截言われた言葉はわからなかったけれど、彼女生き様がまざまざと問いかけてきた現実。聴こえの良い成果を出すのではなく、目の前の彼らに価値を残そうとした日のこと。

 実践する段になって、今度は現地人々の思い込みが障害になって。彼ら自身が状況を変えられないと固く信じていて。でも、メンバーの一人が熱意を込めて、押し切って、それで、なんとかプロトタイプの授業をやってみようと交渉して。そうしたら、実はそんな思い込みは思い込みでしかなかったということ。やる価値のある事は、何かを変えることだということ。何かを変えるとは、不可能を可能にしてみせる事だということ。それが、あなたの幸せに繋がらなくてはその変化の価値など無いということ。みんなが「俺がやった」と思っているオーナーシップの高いプロジェクトのこと。顧客の笑顔から、多くを学んだ。私たちは、たった4 人の非識字者に、だけど事実ほんとうに、自分の名前が書ける能力を与えた。

ムハマド・ユヌスから直截に「世界は変えられる、もしそう望むならば」「明日からのチェンジメーカーではなく、今日からのチェンジメーカーであれ」その言霊が、僕らの中に。

 

  • たからもののような記憶たち。

幸せなことに、たくさんの、たくさんの、大切な記憶がある。それは自分の人生の成長とリンクしているのだとも、思う。

中学受験をサボり倒した日々。ミニ四駆やカードゲームに打ち込んで、大人と戦っていた時のこと。六甲の山を駆け登った中高六年間。ケーキショップやカードゲームの模擬店をつくり、そして何時間もかけてついに公開できなかった映像を創った文化祭。物理部で膨張率を分子間力からの推計と実測を比べたり、万有引力を測ろうと試行錯誤した日々。

夢をいだいてひとり、浪人するために上京して、珍しかった東京の街並み。浪人中、友人と東京タワーに遊びに行った日のこと、ビリヤードをおぼえたこと。

大学の合格発表の直前に失恋して、自分の番号が掲示板にあるのを見つけて「ああ、そうか」とだけ想った、嬉しくなかった合格発表の日。

ちょっと元気になれるかも、と、演劇サークルに入ったが運の尽き。週3の(年の1/4は週5で)身体づくりに勤しんだ日々がはじまり、役者とスタッフのセクショナリズムも、マーケティングの無い広報宣伝も、東大生といっても、せいぜいお勉強ができることだけが保証されたバカだとバレるということも、今ではいい想い出。そうそう合格前にフラれた事を期に、自分ではないものを求めて、キャラクターづくりをして、それも上手く行かなくてやめたりしたっけ。

ビジネスのイロハも知らない仲間たちで、大学受験をサポートするサービスを立ち上げて、ひとりの顧客も獲れずに撤退したこと。最初のたった3人でもう、コミュニケーション不全に陥っていた愛すべき馬鹿の自分たち。中学受験にシフトして、ようよう反応があった感覚。信じてくれた顧客を裏切る結果になった日のこと。顧客が増えて、人が増えて、顧客への「貢献」ということを、すこし実感できるようになった頃。

思い立って、Stanfordの教授にメールを送って、ひとりで飛行機に飛び乗って、StanfordのME317を受講して、d.schoolを見て、サドベリースクールに行って、Googleをひと目見ようと辿りつけずHOPE/Church通りに迷い込んだことだって。終バスの時刻もバス停の場所も分からず、走った夜。次の梅雨の季節、教授の訃報が届いたこと。

賞を獲ると決めて卒論に向かって、賞を貰った卒業式のこと。それより練習を繰り返した発表を終え「見事だったね」という言葉を貰ったあの日のこと。それでも軽い気持ちでぼんやりと大学院に進学して、多大な迷惑をかけて、そして辞めたこと。

あなたと笑いあった日々、泣かせた日のこと、喧嘩した日々、手探りだったとき、見当違いに頑張って、格好をつけてたあの頃。

大学院を辞めた代わりに、イキゴトという会社にコミットしたこと。それでも上手く行かなかった時期のこと。顧客への貢献といいながら、いつのまにか自分自身だけを見ていたことに、気づけたこと。気づいたら「頭のつかえ」がとれて、少しづつちゃんと貢献ができるようになってきたこと。

 

人生の記憶に残るような、濃密で生々しいリアルなシーンが、人生のリソースになっている。人は体験を選ぶことができ、体験によって人はつくられる。

記憶に残るような、激しい、燃えさかるような日々をつくりたい。記憶に留めておきたくなる、穏やかで上質な、あたたかい日々を送りたい。

 

だから、僕の目指す「会社のブランディング」は、クライアント企業が「お客様の人生の記憶に残る会社になること」なのです。

 

せめて、僕の眼がとらえたように

  • 違う世界を、みているというのに。
 僕らはみな、違うように世界をみている。同じ世界を、違うようにみているのか。似た世界を、違うようにみているのか。それはわからない。わからない中で確実なのは、僕がどのように世界をみているか伝える手段は無いのだし、他でもないあなたが、どのように世界をみているか知る手段を持たないということ。
 
 人によっては人工物のレンズを使って、虹彩で光量を絞り、水晶体でピントを合わせ網膜に結像させる。光は電気信号へとエンコードされ、脳に送られ視覚野で解釈される。人工物のレンズ以外は、きっと世界中に2つと同じ形はなく。従って同じ世界をきっと見てはいないだろう。他でもない僕が、他でもないあなたと、どのくらいその差異があるかはいつまでも分からないけれど。
 
 視覚の話だけではもちろん、なくて。同じ物を見たようで解釈は異なるし、人と人との間のズレは、ときに破局へとその姿を還るものだし。分かりあえたようでも現実には以心伝心ではないから、ひとは、ふたつのアプローチをとる。
 
  • 真実には眼を瞑るのか。真実をせめてみようとするのか。
 分かったことにしたいし、分かりあえたことにしたい。鈍感になっていく。無感覚になっていく。迎合していくほうへ、ひとは時に駆動される。「私の感じた真実」よりも、目の前の人と「分かりあえたことにする」のが大切なのだと。真実にはしばし、まどろんでいてもらおう。痺れるような甘美なひとときのために。
 
 僕の中の真実が眼を瞑ろうとしないなら、違いを、自分の感覚を、大切にするよりなくて。その感覚を、言葉を尽くして話すのだろうししたためるのだろうし、つくるのだろうし、表現するのだろうし。わかろうと聴くのだろうし、視るのだろうし、息遣いを表情をとらえようと想うのだろうし、味わおうと感じようとするのだろうし。
 
この両極端の狭間で、あっけらかんともどかしさの間で、危うくもひとは揺れている。ふつうに生きていくには前者が良くて。たいせつな時には後者でありたくて。その間合いのあわない二人はなんとも間抜けで難しい。
 
  • 新しいカメラを買った。


 もう2週間も前になるけれど、SIGMA社のDP2xという単焦点カメラを買った。「ちょっと縁があってSIGMAを」という所も正直なところあるのだけれど、せめて、僕の眼がとらえた真実が、まっすぐに伝わるカメラが欲しかった。自分がいいなと思ったものの、せめて見た目が空気感が、伝わるといいなって。

 きっかけは、こうだ。Facebookで1,2ヶ月くらい前から、ちょくちょく美味しいご飯の写真をアップしている。まあこれが、残念なことに、美味しさがあんまり伝わらないのだ。いい雰囲気の飲食店は、人間の目にはちょうどよくて、ケータイのカメラの目にはちょっと暗すぎる。これじゃあ何も、伝わらないのだ。
 

  • 難しいカメラだった。

 ネット上のあらゆるレビューを読んでから買ったので「知っていた」のだけれど、気難しいカメラだった。パチパチ撮って、そこそこ出来の良い、お手軽なカメラではない。手ブレ補正もついていない。操作性もそう高くない。顔認識なんて無い。単焦点だから当然、ズームも無い。

 でも、光への誠意が感じられるカメラだなと思って買った。RGB全色を捉えるFOVEONセンサーと、そして国内工場で営々と60年レンズをつくり続けたSIGMAのカメラだったから。

 初日には、ひどい写真しか撮れなかったけれど、あらかじめ知らなかったことが徐々にわかってきた。他人に委ねられないカメラだと思った。枚数を撮っていいものを選ぶのではなく、ゆったりと身構えてしっかりと呼吸を整えて「この瞬間」を切り撮るような撮りかたが必要なカメラだと思った。

 

 同じ場所に居て、同じものを、同じように見ているようでいて、僕らは世界をきっと、違うように視ている。違うように視ているから誤解も生まれるし、わかりあうことは難しい。わかりあうことが難しいのは、もどかしいことだけれど、そこに伝える余白がうまれる。表現の余地がうまれる。言葉を尽くして書き、話し、撮り、編集し、仕上げをする。

「分かったつもり」になれる効率のいい平和で便利なコミュニケーションもいいけれど。時間の掛かる一歩一歩な、だけど真摯で豊かな時間。それを持つということを取り戻すのもいいなと僕は思ったのだった。いい写真を撮ることではなく、もどかしくも伝えようとした一枚を撮るという時間そのものを、たいせつにしたい。

 

美しさについて

  • 美意識が高いヤツは偏屈だ
    そして面倒くさい。誰かの思い通りにならないところに、彼の人の美意識はある。彼は美しいと思わないあらゆる事にノーをいう。その人が偏屈ではないならば、美意識なんてないだろう。わかりやすい美意識は迎合に過ぎない。もし迎合に美を感じるのではない限りにおいて。
     
  • 美意識とはなにか
    誰もが同意するなにかが綺麗、というのは他人ごとの美なのだと想う。それは美意識ではなく。
    美意識とは、自分ごとのこと。他でもない、まさに自分の問題として捉えるところに、美意識はあらわれる。
    お化粧の美しさに拘泥しないあの人も、テクストの段は緻密に組む。ガハハと豪快に笑うあの人も、生き様の美しさには妥協しない。
    美意識からはみ出たなにかは、まさにそれが自分ごとであるがゆえに、時に人を激昂させ幻滅させる。 
     
  • 真も善も
    美と対比するのに、何がふさわしいか考えを巡らせた。「真善美」という言葉を想起する。けれど真も善も、美の枠内に回収される。美の枠内に。
    真実を求めるのは、そこに美を感じるからだ。善でありたいと想うのは、それが美しいからだ。いやそもそも、美意識に従って生きることこそを善と本人は言うだろう。
     
  • 「美意識」と「楽しさ」と
    美意識と対比しうるのは「楽しさ」だと思った。美意識と楽しさは、きっと天秤の両側に載る。
    生きる上で美意識は人の行動を制約し「しないこと」を決める。楽しさはそこから外部へ向かおうとさせる自由の発露。
     
  • 美意識はその人のアフォーダンス、楽しさは結果
    美意識と楽しさの間を揺れながら、僕らは今日も。
    ああ、あはれでをかしいのね。
     
  • だから
    美意識の高い人と接していきたい。「その」美意識を共有できなくてもいい。そいつの美意識を楽しめればいい。それはつまり偏屈さをだ。
    自ら楽しめる人と接していきたい。楽しいことを知っている人は、人生の達人だ。

 

感動を、どこか求めて

 
  • みらいを、ひらく。

感動できるくらい、美味しいものを食べたい。 大切なのはそう、感動。 感情が動くような味を、舌触りを、温かさを、求めている。 会話が弾むのではない、むしろ会話を忘れるような、深くためいきの出るような。 そこでは人は、同じ感動を目撃した同志になる。

そういう、味蕾がひらかれるような食を、求めている。

 

  • 邂逅、そして

 美味しいものを食べるのは、昔からすきだった。 美味しい物をお腹いっぱい食べるのが好きだった。 でも感動を求め始めたのは最近だ。感動があれば、お腹いっぱいにならなくてもよかった。感動を求め始めて、せいぜい1年。キャリアが短い。 いろんな人に、教えてもらってばかりいる。ありがたい。

 ただ美味しいものを食べていた僕が、感動を求め始めたのは、感動と出逢ったからだ。

 

  • だって感情が動くのだから。

生の豊かさを変えてしまう何かがあるとすれば、そのひとつは感動だ。感動を味わうと、人生が豊かになる。感動のない人生は、きっと味気ないんだろう。 良いことばかりではない。中毒になる。もっと大きな刺激を求めるようになる。 次の感動を探すと、ハズレにだって、出あう。 でも、求めるために動くのは、いきものらしいと思う。

 

  • 感動を味わい、感動の紡ぎ手になる。

感動を、ひとつひとつの感動できる瞬間を機会を、味わい尽くしたい。そういう感受性を持っていたい。感動とは、こころが動くことだ。繊細に自身の、こころの動きを捉えられる自分でありたい。

感動の紡ぎ手になりたい。でもきっと「感動させてやろう」から感動は産まれない。こころを動かしたいなら、こころを込めて仕事をするしかない。

 

 

越境。あるいはわかりあえなくてもよいということ。

それはありがたいことに、レアな立ち位置に、居ることができているなあ、と、なんとなく思っている。ラベルを貼っていくと、若手起業家だし、大学院中退だし、IT・WEB系だし、ベンチャーだし。と、自分というものがクラスタリングされていく。けれど、クラスタを超えて関係を紡ぐということを、大切にしていきたいと思っている。

 

  • 世代間抗争

経験者と、知見を持っている人と、自分達よりも優れた人と、お師匠様と、一緒に働く。教えてもらう。こういう機会が結構ある。人生を通して出会った素敵な大人たちから、たくさんの素敵な贈り物を貰っている。

「若手起業家」という括りでいくと、僕達ワカモノが世界を変えるんです、という事で年輩の方を変えてやろうとしたり、居心地の良い同年代だけで何かをやろうとしたりする。傾向がある。そうではなく年上の方と、年下の方と一緒にやっていく。意見をもらう。教えて頂く。世代間を分けるのではなく繋ぐことで、自分たちの年代だけでは成し得なかった事ができるようになる。

最近、最年少上場を決めたリブセンスが、社長以下マネジメントクラスを、経験豊富なベテランで固めている組織図を見て、さすがだな~と思ったりした。僕らも経験豊富なひとたちと一緒にプロジェクトをやって、多くのことを教えていただきながら、年下ならではの、自分ならではの、貢献ができるといいなと思う。

一緒にプロジェクトをやっているわけではないけれど、還暦少年団にまた、遊びにいこうっと。

 

  • コンサル・金融・投資家

ありがたい事に、McK、BCG、GSなど、コンサルとか金融が主体の小規模でクローズドな会合・ホームパーティに、ちょくちょく呼んでもらえたりする。 ベンチャーのひとや、起業家は、コンサル嫌いだったりする傾向にあるので、こういう会合には結構居ない。 コンサルが、金融が虚業だと言う人だって、別に世界を変える仕事やひとりを感動させる仕事をしているわけではなかったりする。コンサルティング、いいじゃないですか。 

投資家のかたと、一緒に仕事をする機会を頂くこともある。それも、僕らの会社は僕らへの投資も、資金調達も、必要としていないのにも関わらず。事業の大枠を作り、会社を集め、資金を突っ込み、新事業をスタートさせるというその馬力を目の当たりにする。

 

大学院は辞めたけれど、大学でお世話になった先生がたには、まだまだお世話になり続けている。僕はどちらかというとワーカホリックの側だと思うけれど、賢いニートも好き。大企業や大企業のTOPの方々と、つてあってお話を伺えたりするのも僥倖。

まだなにものでもない僕らは、なにものかになったひとや、なにものかであることに安住している人に、時に嫉妬を抱いたりする。だから「起業家クラスタ」は時に大企業の無能無策を言ったりするけれど、まあ、公平に見れば、大企業はほんとうに凄い。まず、あれだけの人を雇えるということが凄い。スターに頼らない仕組みが凄い。学ぶべきことはたくさんある。

 
  • 違うことを楽しもう

わかりあえなくてもいい。わかりあえない、ということがわかりあえていればいい。どちらかが正しくなくていい。意見が違っていい。同意できなくてもいい。違う人生を歩んできた。だから、相手と違っていてもいいところの、自分の意見と想いを述べられる。自分の人生の上での実感値を持ってしか、自分は想いを込めてメッセージを放てない。

分け隔てなく接するということではない。「わたしとあなた」を分けているもの・隔てているものが面白い。あなたのやっていることに、興味は無くても、それをやっているあなたに興味はある。

それはきっと、人生の物語としての面白さ。

 

  •  僕が接しない相手

とはいえ、とはいっても僕は。誰にでも心を開いてニコニコ、みたいな感じではない。むしろこんなカテゴリを越えた所に、強烈な好き嫌いがあるのだと思う。自分にとって面白いか、面白く無いか。居心地が良いか、居心地がよくないか。そこに自然と拘っている感じがする。

たぶん「『わかりあえないことがわかりあえれば、それでいい』と、いうことを、完全にわかりあえない」ひととはダメなんだと思う。人を説得し、変えなくては気が済まないひととは。メタだなー。

「意志の不在」も気に入らないんだと思う。正解を外部に委ねるのではなく、自分のモノサシでもって、自分の社会や世間との違いを、楽しめる人がいい。

 

いったいぼくはどこに、居ないのだろう。

 

The first entry / Remember Hatena.

はてなBlogの、位置づけが決まらない。
  • 思えば、最初に使ってみたBlogは、はてなDiaryだった。受験生の頃Livedoor Blogに一時期浮気して、浪人生でまたはてなに戻ってきたのだった。「はてな」高校生の頃の自分に、不思議に心地よい名前だった。はてな。 独特の記法にも親しんだし、アカウントも2つ、3つ持っていた。ひとつはBlog、ひとつは集めたネタの保管庫として。2004年の初期だったと思う。確か、Blogを、始めたのは。
 
  • 2009年が終わると、Blogと疎遠になった。当時のmixi, Twitter, freedom-SNSなど、競合サービスでの人とのやり取りは楽しくて、Blogよりも優れた読み手は、はてなではないどこかに居た。いつのまにか、Blogに何を書けばいいのか、わからなくなってしまった。一時期やっていた本のレビューもやらなくなった。良い記事を書けば、ソーシャルブックマークはプレビュー数を集めたが、そこから人間関係が産まれていくことは無かった。
  • 人間関係といえば、浪人生の頃、単身上京して浪人した。駿台生だった。一人暮らしで、駿台寮でも無かった僕に、最初にできた友達は、僕のBlogを読んでいて、話しかけてくれた人だった。彼と何度かご飯に行って、他の友だちとも仲良くなって、気づけば彼とは疎遠になっていて、彼は駿台から居なくなってしまっていたけれど。
  • もう、その時の気持ちを正確には思い出せないのだけれど、そこには希望があった、ような。Blogを書くことで何かが起こるような、そんな感じがしていた。はてなの製本サービスで、いずれ自分のBlogが本になればいいなと思っていた。はてなは、僕らに何がしかの未来をみせてくれたのだと思う。オンライン上で知り合いだった誰もが、Blogを始め「テキストサイト」がBlogに次々と、駆逐されていった。すくなくとも、そのように見えた。 
 
  • いつのまにか、Blogは乱立しながら勢力を伸ばし、アメブロは芸能人に舵を切った一方、はてなは2005年「はてなブックマーク」をリリースして、それが人口に膾炙しはじめてから、吹き溜まりになった。記事の書き手の「目に付くが削除できない」聖域で、100文字以内の罵倒が日常茶飯事になった。「みんなで、いいものを掘り起こそう」と始まったはずの、はてなブックマークが戦場になっても、はてなは静観を決め込んだ。はてなは書き手にとって、居心地の良い場所でなくなっていった。はてなブックマークが集まると嬉しい。でも、ブックマークで変なコメントがあつまるのも怖い。これが戦略的なダブルバインドの設計であれば驚嘆する。
  • はてなはだから、僕にとっては既に終わった場所だった。気に入っていたけれど、飽きてしまった玩具をなかなか手放せないように、そこにログがあるから残っている。まとまったものを「他でも」書く時に「ついでに」そこに投げておきたくなる。もう、そのくらいの場所に過ぎなくなってしまった。
 
  • 新しいはてなが見せてくれる未来は、あるんだろうか。Ulog( ulog.cc )のデザインは洗練されていないけれど、未来の一端を垣間見れる。そんな未来が見れるなら、もうちょっとだけBlogに夢を、みていたい。